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阿貴(アークエイ)。かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂。

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青森李登輝友の会ブログ

日本李登輝友の会の青森県支部です。略して「青森李登輝友の会」です。 皆様宜しくお願い申しあげます。

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「光華」(2005・9)より

「光華」(2005・9)より

消えゆく歌声―台湾籍日本兵のラバウル小唄

ラバウルは、パプアニューギニアのニューブリテン島にある。第二次世界大戦
で重要な軍事基地だったこの地は、連合軍との戦いで多くの日本兵が命を落と
したことで知られる。が、彼らの中に日本の軍服を来た「台湾人」が多く混じ
っていたことを、あなたはご存知だろうか。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「今でも自分が戦地にいる夢を見て、台湾に帰ったはずなのに、なぜまだここ
にいるのかと自問していることがあります」と言うのは83歳の台湾籍元日本兵
である劉英輝さんだ。劉さんにとって60年前のあの戦争は過ぎ去ったことでは
ない。

埔里の40人

1943年(昭和18年)4月25日、「台湾第三回特設勤労団」として埔里出身の19~
20歳の若者40名は、高雄港から輸送艦で出発した。マニラ、パラオを経て一ヵ月
後にラバウルに到着、7129部隊の103兵站病院に配属された。

出発前、神社に参拝をすませて出征する彼らを、沿道では埔里酒造所の従業員や
学生たちが日の丸を振りながら見送った。

だが劉英輝さんの妻は見送りに行かず、四ヶ月になる長男を抱きかかえて家の中
で懸命に働いていた。「そうするしかなかったのです。手を休めると涙が出てき
ましたから」と、84歳の夫人の脳裏に当時の記憶が鮮明によみがえる。

40人の中には、日本人警官に半ば強制的に徴集された人もいたし、軍の俸給を得
るために加わった人もいた。劉英輝さんの場合は「愛国心」のために仕事を捨て、
家族の反対も顧みずに出征した。

「あの時代、戦争に行くことは栄誉でした。お国のために、勝つためにと、それ
ばかりを念じていました」と、劉さんは背筋を伸ばしたいつもの姿勢で語る。
「軍服に着替えれば戦士です。殺すのでなければ殺される。そう考えていました」

指一本の遺骨

ラバウルの野戦病院での仕事は死傷者を担いだり、防空壕を掘ったり、さらには
畑で野菜を育てたりもする、まさに「特設勤労」だった。

10万の精鋭部隊をラバウルに投入した日本軍だったが、連合軍の集中砲火に多く
の死傷者が出た。「沖を見ると米軍の戦艦、航空母艦などが、まるで運動会で生
徒が手をつないで並んでいるように連なり、空からは虫が卵を産むように無数の
爆弾が降ってきました」と劉英輝さんは、戦友の潘友元さんといっしょに当時を
振り返る。

戦争末期は爆撃が激化、遺体を埋める仕事も忙しさを増した。「大きな穴一つに
50人埋めるのですが、人数がそろうまでは椰子の枝や葉で穴を覆っておきまし
た」「私たち台湾少年は本当に気丈なものでした。戦死者の手を切り落とすこと
もしたのですから」と劉さんは説明する。遺体を荼毘に付す油や木材も欠乏した
ため、手だけを切り取って火葬にし、遺骨として祖国へ送ったのである。「それ
も最期には指1本に限られてしまいました」という。

1000体以上を荼毘に付したという辜文品さんは、今でも火葬場の近くで臭いを嗅
ぐだけで体のどの部分が燃えているのかわかる。「最も燃えにくいのは心臓で、
ガソリンを足す必要がありました」という。

1945年8月15日、連合軍の捕虜として収容所にいた台湾籍日本兵たちも玉音放送を
聞いた。「なぜ負けたのかと涙を必死にこらえました」と劉さんは言う。

計30回組織された台湾特設勤労団では、死者が半数に及んだ回もあったが、幸い
に劉さんたち40人は全員が無事だった。台湾へ戻る船上、南十字星を眺めながら、
心は船よりも早く故郷に馳せていた。

別世界

故郷に戻ってみると、日の丸に替わって青天白日旗が翻っていた。日本語で教育を
受けた台湾日本兵たちは、新たな「国語」ができないため、元の職場に復帰でき
ないことが多かった。酒造所で働いていた劉さんも家で畑仕事をするしかなかっ
た。

潘友元さんの場合はさらに悲惨だった。命からがら故郷に戻るや二二八事件が勃発、
それに続く全国的な粛清で投獄されたのである。「『爪の手入れだ』と言われては
爪の下に針を刺され、『飛行機に乗せる』と言われては逆手に縛られて天井から吊
るされました」と、拷問の様子を語る。先住民平埔族の血を引く潘さんはその大き
な目を見開いて「あの時、一回死んだようなものです」とつぶやく。

「違法に銃弾を保持していた」という当時の判決は未だに無実が晴らされず、名誉
回復もなく、潘さんは人生の半分以上をくず拾いでしのいできた。

鬱積する思い

「悔しいです。戦場での命からがらの経験に耳を傾けてもらえないどころか、国民
政府とともに来た外省人からは『おまえら日本兵なんか』と罵られました」と劉さ
んはため息をつく。国民政府の教育を受けた子供たちも日本は悪いと言い、敵のた
めに戦ったと父を批判した。

賠償問題では日本への怒りもある。劉さんは「天皇のために戦ったのは同じなのに、
日本人には当時の7000倍の額、台湾人には120倍しか賠償してくれません」と訴え
る。日本政府の仕打ちは、かつて日本の皇民であったという彼らの誇りを引き裂い
た。多くの台湾籍日本兵は慰問金の受け取りを拒否している。「それぐらいで借り
を返したと思って欲しくない」からだ。

結局、日本からは「もう日本人ではないから日本が世話する必要はない」とされ、
国民政府からは「敵のために出征した」と言われ、どちらからも顧みられず、彼ら
は時代に取り残された。

今年、台湾団結連盟主席の蘇進強氏が日本の靖国神社に参拝したことについて、劉
さんは「この60年で初めて、台湾の政治家が具体的な行動で台湾籍日本兵を肯定し
てくれた立派な行為だ」と感じている。

おそらく何度も自問したことがあるであろう、「日本人のために出征したことを後
悔していませんか」という問いに劉さんはしばらく考え、慎重にこう答えた。「私
たちは日本時代に生まれ、日本の教育を受けました。日本人との間に差はあったと
はいえ『台湾人』とは呼ばれず、彼らを『日本人』と呼ぶこともなく、本島人や内
地人と呼び合いました。支那事変(盧溝橋事件)が勃発し、当時の我々にとっての
国家が中国と戦争をしたので、絶対負けてはならぬとお国のために戦ったのです」
「あの時代に我々が自分のより所と見なしたもの、それが『日本精神』です。今な
ら『台湾魂』と言ってもいいでしょう。現代人のように『自分はなに人か』と悩む
こともありません。国民政府とともに来た兵士たちは、かつては『反共、反共』と
言っていたのに今では『大陸と和平を』などと、言うことがころころ変わります」
と、彼らは時代とともに軽々と転向することなど思いもかけないようである。

今年の夏、劉さんは孫を連れて日本へ行き、戦友に会い、愛知万博を見てくる予定
だ。「日本の技術や礼儀正しさを孫に見せるつもりです。裕福になった台湾も礼儀
を知らなくてはいけません」日本を見せると言うよりは、かつて日本兵であった汚
名をそそぎたいのかもしれない。長年の沈黙の後、彼らは台湾籍日本兵が「悪者」
ではないことを証明したいと思っている。

最後の誕生祝い

戦後35年を経て戒厳令が解除され、民間で団体を組織することもタブーではなくな
った時、埔里40名の元特設勤労団員は誕生会という名目で定期的に集まるようにな
った。年々人数が減り、現在「動ける」人はたった8人、ほかに中風の人が2人と
なってしまった。

そんな現状を見て、交流を続けてきた日本の「第十野戦気象隊隊友会」が、生活に
困っている元日本兵に贈ってほしいと、最後の会費日本円15万を劉さんに託した。
日本政府は責任を果たしたとは言えないが、戦友の情は厚い。

だが、このような戦友会も姿を消しつつある。来年、劉さんは集まりの規模を大き
くし、すでに亡くなった戦友の家族も招いて最後の会を行う予定だ。会では例年の
ように、当時南洋で大流行した「ラバウル小唄」を最初に斉唱する。

「さらばラバウルよ、又来るまでは。しばし別れの涙がにじむ。恋し懐かし、あの
島見れば、椰子の葉かげに十字星」


[写真キャプション]
「あの時代は戦争に行くことだけが栄誉でした。お国のためなら、命も惜しくあり
ませんでした」若い頃の写真を手にした83歳の台湾籍元日本兵・劉英輝さんは、今
も当時の若さと情熱を感じさせる。戦場から郷里へ帰ってみると過去の栄光は「汚
点」とされ、さらに二二八事件後の全国的な粛清で捕えられ投獄された。83歳の潘
友元さんは、大きな目を見開いて抑え込んできた無念を訴える。




『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
『台湾の声』バックナンバー http://taj.taiwan.ne.jp/koe/
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