background movie
HOME ブログ翻訳
powered by 3ET
powered by 電脳PC生活
プロフィール

阿貴(アークエイ)。かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂。

Author:阿貴(アークエイ)。かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂。
図4
台湾旗


よろしければクリック!


おすすめ書籍
李登輝 本
お申し込みはhttp://www.ritouki.jp/cgi-bin/enquete/form0028.reg


おすすめ書籍
李登輝先生
HPからお申込み送料無料でお届け
http://www.ritouki.jp/


おすすめ書籍
りん先生
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4890632018.html


おすすめ書籍
永山
http://books.livedoor.com/item_detail/niitaka161208/524b&isbn=9784944235384.html
定価1680円(税込み)。版元の「まどか出版」へ「著者のブログで見た」と書いたメールで送ると、「送料無料+後払い」でお買い求めできます。(住所、名前、電話、書名、冊数もお願いします)(まどか出版)
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/この本の著者のブログ



メルマガ「台湾の声」の購読を!
台湾・日台関係情報のほか、日本における台湾独立建国運動や台湾防衛運動の情報を毎日配信。
http://www.emaga.com/info/3407.html

最近の記事 最近のコメント 最近のトラックバック 月別アーカイブ カテゴリー
ブロとも申請フォーム HS月別アーカイブ

青森李登輝友の会ブログ

日本李登輝友の会の青森県支部です。略して「青森李登輝友の会」です。 皆様宜しくお願い申しあげます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

近代台湾は脱亜即興亜の実験地李登輝2005-08-26

『台湾論』その2 序文 近代台湾は脱亜即興亜の実験地 2005-08-26 16:44:14
李登輝
拓殖大学創立100年記念出版より転載
台湾論 その2/月刊・台湾協会・会報(一八九八~一九○七年)から
序文:李登輝

近代台湾は脱亜即興亜の実験地


拓殖大学名誉博士
台湾前総統
李登輝

西暦一九○○年に台湾協会学校として日本の東京で発足した拓殖大学が、二○○○年に創立百年の記念式典がされたことは、台湾の近代史にとっても興味深いものがある。同校の初代校長桂太郎は、日本の領台時代には短期間ではあったが総督(二代)もされている。三代学長は、四代総督児玉源太郎に請われて民生長官に就任し、台湾の庶政全般の近代化に先駆的に取り組んだ後藤新平である。

近代台湾における商工分野の中堅技術者を育成した私学の台湾商工学校は、拓殖大学を経営した東洋協会(台湾協会改め)の台湾支部付属の学校として、一九一七年に発足した。多くの人材を近代台湾の草創期の産業社会に送った。

日本時代が終了してからは、卒業生が団結して再建し現在の開南高級商工職業学校として存続してきた。創立八○周年を記念した事業として開南管理学院も桃園に開学した。情報関係の総合大学にする構想で取り組んでいる、と初代の荘淇銘院長から聞き及んでいる。現在も斯界に貢献するところ大いなるものがある。私は、一九四五年以降の学制が混乱していた一時期に、この学校施設を用いた延平学院で授業を受け持ったことがある。

さて、この記念すべき二○○○年の一二月に、私は一六代になる現在の総長小田村四郎先生より、台北で名誉博士の称号を授与された。小田村先生の外祖父君は、台湾の近代初等教育の礎を作るために犠牲になられた芝山巌六氏先生(1)のお一人である楫取道明氏先生でもある。そこで小田村先生は、度々、同学校の旧師も含めた同窓親睦会の士林会にも招かれて訪台されてもいる。

近代台湾と日本は緊密な関係にあった。そこで拓殖大学と台湾は、様々な側面で先行して交流があったようである。とくに一八九八年から一○年間にわたり月刊で発行された『台湾協会会報』に盛られた諸情報は、近代台湾に関する地域研究の資料として、これから益々重要性をもってくる。それは、藤渡辰信理事長が『台湾論』の先巻になる「その一」の序文「台湾に関する地域研究では世界のパイオニア」で、的確に指摘するところである。
拓殖大学が創立百年を記念して、今回連続して刊行している『台湾論』に収録されている諸資料は、本書の解題者でもある黄文雄先生や若い後進の撰になるものである。私は、黄先生の学識の深さに対してかねてから評価をしている。

総統時代に私は、“一つの歴史存在としての台湾”アイデンティティの模索を推進するために、歴史認識を活発にする工夫をした。それは中等教育における教材としての『認識台湾』の編集と刊行である。この内容をさらに深化するためにも、本書を含めた二巻と続刊に収録されている資料は、学問的に読み抜く必要がある。

ここで言う学問的とは、ともするとこれまで政治主義的な読み方があった風潮に距離をおいた手法である。従来の取り扱い方では、日本時代を意味する近代台湾はまったくの暗黒時代であった。その半世紀とは百害しかなく一利も「一理」もなし、であった。

日本ではどうであったか。撰者黄先生は、先巻の解題の冒頭で、日本でもこの半世紀は台湾と台湾史がタブーであったと指摘している(「はじめに――――タブーとしての『台湾』と台湾史」)。この有り様は、元日本人でもあった台湾人の私から見ると、「光復」後の台湾よりも更に悪いと言える。

近代の半世紀に及ぶ台湾における日本時代をどう評価するかは、近代北東アジアだけに限らず近代世界史での日本の足跡をどのように評価するかとも関係している。そこで、現在でもすぐに国際関係での争点になってします。ここで先験的(ア・プリオリ)かつ一方的に、侵略と収奪の日本軍国主義と判決する前に、日本人先覚者が何を志向していたかを追及しよう。


現在でも日本の知識人が問題にする発言は、慶應義塾大学の全身である慶応義塾を創設した福澤諭吉の「脱亜論」(一八八五年)であろう。福澤の同文で言う亜細亜とは、「古風舊慣」「一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ」地域であった。しかし、後世の日本の知的社会にも影響を与えているこの短文の文脈は、題名に引きずられたのか、必ずしも正確に伝わっているように思えない。

私の解読によれば、福澤は、明治維新によって近代化/開化路線をを取る日本社会やその指導層と比較して、旧態依然として安眠を貪っている「ヨーロッパ人が『アジア的停滞』と呼んだ(2)」事態にある近隣の東洋社会を支配する指導層に、その実際の経緯を見ていて不信感を抱いたのではあるまいか。そうした亜細亜から離陸する立場を選択するとのマニフェストであったと思う。

問題は、この離脱がいわゆる脱亜入欧を意図したものであったのかどうかである。先巻の巻頭に収録されている桂太郎の「台湾所感」(『台湾協会会報』一号。一八九八年一○月)を読むと、台湾社会の近代化を如何に図るかを、政策的な課題の列挙と取り組み方の両面から丁寧に思索している。

西力東漸にあるアジア(東洋)社会の現実にあって、その根底に流れていた意欲は、日本の国威あるいは国家利益だけを追求するのではなかった。日本とともに「興亜」をいかに推進するかの志も視野にあったようである。それは後藤新平の発言にも見ることができる(3)。その推進力を日本精神と呼んでもいた。この精神は狭いものではなく普遍性ももっていた(4)。

脱亜の志向は、それを通して興亜を求める、興亜は脱亜で達成されるとする、脱亜即興亜の路線であったと言える。そうした意味で、近代日本には脱亜という国際貢献の路線があった。この観点から見ると、台湾は最初の実験地になったわけである。

この二つの意図の不可逆的な関係の意味するのもは、対象とされた当時の東洋社会の指導層に伝わったとは言い難かった。かなり空想的だが、もし敏速に伝わり理解されて、更に取り組みが始まれば、日露戦争は起きなかったかも知れない。もちろん、この日本指導層の願いは地球に覇権を握っていた欧米社会にも伝わらなかった。だから伊藤博文などの日本要路の切実なる振る舞いは、欧米から見て猿まね視されている。

最も重要なことは、こうした近隣亜細亜に対する国際貢献の意識が、果たしてどこまで日本社会にも共有されたのか。高等教育を受けた世代には、表面上の脱亜入欧に軽薄に傾倒した者が居たのではないか。欧米に追従する猿真似である。

日本の知識層にアイデンティティとは何かの理解が常識になっていれば、この半世紀における進歩的と言われる日本人の自国の近代認識についての、自虐はありえないと思う。始末の悪いことに、この自虐は卑屈を醸成することだ。さらにフェアーであることの基準とは何かを見失って、徒に大国に阿る性癖をもたらしていることである。福澤の「脱亜論」の底流に脈々とある浩然の気は感じられない。


日本統治時代における台湾への諸政策は、台湾人アイデンティティを確実に形成していくためにも、是々非々の立場から考察される必要がある。多くの近代化策は現在の台湾を築くために役立っている。同時に、時間の十分でなかったところからくる限界もあった。偏狭な自愛からくる押し付けも時に見られた。こうした全てについての真剣な総括が求められている。

こうした作業は日本にも必要なのだ。これからの日本人が二一世紀の世界史のなかで自らを位置付けていくには、自分たちの父祖の足跡をどこまで信頼できるかにかかっているからである。近代日本で唯一の国際大学であった拓殖大学は、日本人だけでなく多国籍の研究者の国際的な共同研究によって、そうした課題をこれから明らかにする学問的な責任があるといえるだろう。

私は、地球的な視野に立って海洋アジア・太平洋世界の一員としての台湾を目指した台湾人としてのアイデンティティの確立に、この半世紀を費やした。現在も取り組み、これからも斃れて後に止むまで「性命」を燃焼し続けるであろう。

この半世紀の負の出発点になっていた悲劇の二二八事件を追悼し、さらに現在の台湾に住む人々が一緒に考える糧となることを願って、二二八記念館も建立した。ここには拓殖大学の出身者許壬辰先生(編者注)も入ってくる。

敬愛する作家司馬遼太郎さんと総統時代に面談したおりに、「台湾人に生まれた悲哀」と述べたのは、近現代を通して台湾人がアイデンティティを確定するためにどれだけの流血があったのかを、我が身に受け止めて辛く思ったからである。

そうした流血が未来に起きないようにするには、どうしたらいいのか。歴史の教訓を鏡にして、その示唆するところを咀嚼し行動に反映させるしかないと思う。それは問題によっては一国だけでよくなし得るものではないのは、欧米列強との関係で様々の要因から国際的な孤立を余儀なくされていった近代日本が参考になるだろう。

指向を同じくする国家間の協力が求められている。台湾がエスニックな自分の運命を自力で決することのできる国際条件と環境が出来上がったときに、台湾にとっての脱亜が実現したことを意味するだろう。日本も未完である近代における脱亜の意図の一つを実現したことになる。脱亜即興亜は過去のことではない。一巻やこの二巻に盛られた諸稿にある問題意識を深めることは、脱亜実現の一助になるだろう。


二○○三年一月八日

(注)

(1)藤原正巳「芝山巌事件の真相」和鳴会(東京)二○○一年。

(2)拙書「台湾の主張」五○頁。PHP研究所(東京)一九九九年。

(3)後藤新平「世界における日本の地位」『東洋時報』二五四号 一九一九年一一月。拓殖大学編「三代学長後藤新平――――背骨のある国際人」所収。 一五六~一五七頁。二○○一年。

(4)拙稿「日本人の精神/台湾の水利事業に尽くした故八田與一」産経新聞 二○○二年一一月一九日 六面。 同年一一月二四日に慶應義塾大学の大学祭で講演を想定して準備していた原稿の全文。

(編者注)許壬辰学友は、専門部一六期、武徳科二期。一九四二年卒。その短い一生については、宮沢正幸学友(学五一期/専門部二四期)が哀切を込めて「烈士許壬辰と二二八記念館/台湾2・28事件の事実」と題して記し、学友機関紙『茗荷谷たより』三六六号に寄せている。
スポンサーサイト

COMMENT

始めまして

僕の日本語は阿貴さん見ないに上手くないけど
一様日本語で政治についてブログを書いてる
台湾人です。

よろしくお願いします。

EDIT COMMENT

非公開コメント

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

世界における日本の役割~日露戦争から百年

何日前に僕はThe Foreign Correspondents' Club of Japanのサイトに色んな政治家のスピーチと記者会見のビデオを見つけてどこまでも見かける堀江貴文もビデオもありました。堀江は何故、外国にもちょっと有名の人で僕は思わず、 堀江のビデオを開いて見ました。 堀江のスピ
プラグインの説明
このテンプレートは、プラグイン1・2・3に対応しています。

最上部のメニューバーがプラグイン1です。マウスオーバーで展開するメニューになっていますので、お好みでプラグインを設定してください。「HOME」のような普通のリンクも置けます。

←のエリアがプラグイン2です。有効範囲幅は180pxです。

このエリアがプラグイン3です。有効範囲幅は540pxです。
サイズの大きなプラグインに適しています。

★テンプレート名で検索すると、作者のブログにより詳しい説明があるかも知れませんし、無いかも知れません。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。