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台湾はいかに歴史に登場したか―中華から切り離されることの幸せ 永山 英樹 2003/02/12

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台湾はいかに歴史に登場したか―中華から切り離されることの幸せ  
■永山 英樹/台湾研究フォーラム事務局長  2003/02/12
■本稿は平成15年1月18日に行われた台湾研究フォーラム第46回定例会での発表「日・西・蘭・鄭 環中華海洋列強大攻撃―台湾はいかに歴史に登場したか」の筆記である。

   <1>倭寇のアジトになった台湾

 ①台湾が歴史に登場しなかった理由―国際秩序の観点から

今日は「いかにして台湾が歴史に登場したか」がテーマだが、「いかに」の前に「いつ登場したか」について話すと、一般に「台湾400年史」と言われているように約400年前の16世紀から17世紀にかけてだ。台湾の歴史教科書『認識台湾』には、「16世紀後半から日本人と漢人の密貿易者や海賊が活動を始め、17世紀に入るとオランダやスペインが統治を始めた、そのようにして台湾の歴史の幕は切って下ろされた、それ以前は原住民だけが住む未開の土地だった」と説明されているが、実際にその通りだ。これに対して支那は、「それよりもはるか以前から台湾は中国の神聖不可分の領土だった」と言って聞かないが、それは全くの嘘である。当時の支那の王朝は明だが、明国にしても台湾を統治したことなど一度もない。この「嘘」はいかようにも暴くことができるが、今日はまず当時の国際秩序なり国際体制なりの観点から、それを見てみたい。

国際秩序と言えば、今日では世界の主権国家が国際法に基づいて対等に並存するという国際法秩序だが、実は19世紀まで、東アジアには独自の自己完結的な世界秩序が存在していた。それは中華世界秩序と言うべきもので、支那の皇帝と周辺諸国の国王との一種の国際的君臣関係である。一般には冊封体制、朝貢秩序と呼ばれていているように、支那の皇帝が周辺国国王を冊封、つまり臣下に任命する、そして冊封された国王は臣下の礼として支那皇帝に朝貢を行う、と言ったものだ。周辺国は嫌々冊封を受けていたとの印象もあるが、実際は必ずしもそうではない。冊封されることで国王は内外に自分の権威を示すことができたし、または朝貢することで貢物を上回る中国の物産(周辺国はこれが喉から手が出るほど欲しかった)を回賜という形で受け取ることができたので、これは魅力ある貿易関係でもあり、メリットは大きかったのである。

日本は一部の時代を除いて冊封を受けることはなかったが、しかしこの世界秩序自体を否定することはほとんどなく、「世界とはそういうものだ」と考えていた。

その中華秩序は唐の滅亡とともに一度破綻している。その後中国は五代十国の戦乱を経て宋が統一したが、この王朝はこの秩序を再建できなかった。なぜなら宋は遼や金といった北方周辺国に逆に貢いでいたからだ。もっとも宋はそれでも、東亜世界の政治的主導者にはなれなかったものの、文化面、経済面においてはやはり中心だった。とくにこの時代、経済活動が非常に活発化して市場が海外に拡大され、一つの広大な海上交易圏が形成されたのである。しかし宋には政治的イニシアチブがないため、この交易圏は無秩序なものだった。

その後、元の時代を経て1356年、明が支那の統一国家として誕生した。明は中華秩序を再建するため、建国すると直ちに周辺諸国に朝貢を要求するとともに、海上交易圏に秩序を打ち立てるため勘合体制を布いた。これは勘合符という渡航許可書を朝貢国だけに与え、それを持たない外国船は一切支那への渡航を許さないという厳しいものだった。

当時周辺諸国が欲した支那の物産とは生糸、絹織物、陶磁器、木綿などである。日本も足利時代に朝貢したが、日本が当時最も欲しっていたは銅銭だった。その頃日本は銅不足のため、支那のコインを流通させていたのだ。

このようにして明の時代、最終的には50ヶ国以上がここに朝貢していた。では台湾はどうだったかと言うと、そこには政府すらない島が朝貢などするわけがない。明にしても内向きの大陸国家であり、自国に何ら害のない海の彼方の未開の島など全く関心もなかったし、その存在すら知らなかった。

中国の「嘘」とはこういうことだ。そして台湾が歴史に登場しなかったというのもこういう訳だ。

この中華秩序は19世紀に消滅する。海の列強が支那に対し、この秩序を一切無視した自由な往来を要求したためだ。もちろん当初は中華と海上勢力は衝突した。その第一弾がアヘン戦争であり、決定打が日清戦争だった。これらを経て中国は旧来の体制では立ち行かないことを痛感し、近代的な国際法秩序への参加を余儀なくされて今日に至っている。

もっともかつての世界の主宰者だった支那は、この現状に甘んじているわけではない。いつの日かは支那中心の、かつての不平等な中華世界秩序を再建しなければならないと考えている。これは極論でも何でもなく、彼等の民族的な世界平和観とはそういうものだということだ。今日の顕著な軍備拡張や海外進出の動きも、そうした願望、使命感の表われであることを、日本や台湾など周辺国は充分理解しておかなければならない。

 ②海禁―海の「生態」を知らない大陸国家の愚昧

実はこのような海上勢力による中華世界秩序への挑戦、対抗、攻撃というものは、西力東漸の19世紀以前の明国の時代にも行われていたのである。そしてその過程で台湾の存在が初めてクローズアップされたということが今日の話の主眼だ。そしてその今日的な意義は何かということも、あわせて考えて行きたいと思っている。

では明の時代、そのようなものが誰によってどのように行われたかだが、それを話す前に、まず中華秩序というものの本質を一言で述べると、「中華の権威に支えられた国際秩序」ということだ。そもそも支那とは「中華の権威」だけで形成、維持されている国であり民族であると言うことができる。そもそも国でも人でも、権威だけにすがる者は往々にして、権威が一旦他者によって傷つけられると、あたかも自分の全てが否定された気になって過剰に反撥するものだ。例えば「中国」とは中華人民共和国の略称というより「中華の国」という権威を言い表すものだが、実際日本人が「支那」と呼ぶことで、この国の人は問答無用で猛反撥してくる。

中華秩序を律する明国の勘合体制にしても、何も武力で強引に打ち立てたものというより、基本的にはやはり「中華の権威」に支えられた貿易統制である。ところが支那との交易を望む周辺海洋勢力からすれば、それに従っていたら何もできない。だから当然非公許の私貿易、つまり密貿易に走る。明国からすればそのような中華への礼を失した輩は討伐の対象となる。そこで交易者側も武装を強化する(もともと無秩序な海での交易船は武装しており、海賊船でもあった)。このようにして中華秩序への対抗、挑戦という基本図式ができ上るわけだ。

この「中華の権威」を傷つける海上勢力を、明国は一括して倭寇と呼んだ。倭寇はもともと日本人が主流だったが、その後日中合弁事業となって中国人が主流になる。中国人倭寇は自ら日本人と名乗り、日本人の格好をしている者も多かった。それほど明国は日本の海賊を恐れていたのだ。その後ポルトガル人も倭寇に指定される。

日本の倭寇は元寇への復讐心から発生したとよく言われるが、実際日本人海賊の横行は、宋代の海上の無秩序が誘発したものだ。元寇にしても、海に秩序を打ち立てようとした元が倭寇を根絶のため、日本征服を図ったとの側面もあるようだ。

続く明国にしても中華秩序を確立するため、倭寇退治が建国当初からの国是になった。そこで採られた措置が海禁である。これは勘合体制と表裏一体のものだが、つまり「住民は海に出て仕事をするな」といったような厳しい御触れだった。つまり「海で勝手に交易するから倭寇が来るのだ」とうわけである。しかし人間も経済も生き物であり、これは海の「生態」を全く理解していない大陸的な発想であり、愚策だった。陸地でなら人民を弾圧すれば事足りるにせよ、広い海上ではいかに弾圧を加えても逃げられるどころか、ますます相手を狂暴化させるだけだ。この海禁がかえって倭寇を猖獗させたのである。

今日支那は、「アジアの海」を「中国の海」にしようと躍起になっているが、このような国に支配されたら、一体どのような海になってしまうのだろうか。

日本人の倭寇は北方の朝鮮や山東あたりの海を荒らしていたが、これは明国やその意向を受けた足利幕府などの取り締まりや討伐によって一度は沈静化するが、その後倭寇の拠点は南に移って行く。

南というのは浙江、福建、広東沿岸である。この地域の住民は海で生計を立てる者が多く、ことに台湾の対岸にあたる福建に至っては、人口の9割が漁労や交易で喰っていたという。だから彼らにとって「海に出るな」との海禁など、とんでもない話だった。

福建の大地主たちは中央派遣の官吏よりはるかに力があり、勝手に大船を建造し、取締官には賄賂を贈ってどんどん海に繰り出していた。そして海賊と結合して私貿易の海上勢力を拡大した。これが支那人を主力とする倭寇である。

15世紀から16世紀にかけ、海上交易圏の主力は、勘合船よりこの私貿易集団が主流となった。16世紀前半には浙江沖合の雙嶼が彼等の拠点となり、一つの独立国さながらの様相を呈していた。そこにはポルトガル人も加わり、日本人も増加した。日本は1547年に勘合船派遣を一度取り止めたが、その後復活させていない。と言うのはすでに密貿易ネットワークが発展している時代に、勘合船など流行遅れだったからだろう。


 ③台湾へ―中華圏外への倭寇の脱出

倭寇といえば海の荒くれ者との印象があるが、実際倭寇の船は明国の軍船より小さく、その威力を発揮したのは海戦よりむしろ陸戦の方だった。例えば支那事変で日本軍は上海から南京まで攻め込んだが、その一帯などはみな倭寇の戦場だったという。倭寇は日本人が指揮官で、支那人が兵隊といの構成が最強だったとも聞いたことがある。つまり日本人は戦術に長け、支那人は略奪、虐殺が得意だったということだ。彼等はまさに向かうところ敵なしで、二、三万の大軍で南京城に迫ったこともあった。

だから明国は山東から広東まで、沿岸線に万里の長城さながらの海防線を敷き、百数十もの城塁を築き、各省から何万もの住民を動員して守備にあたらせた。そのため明国はこれで財力と人力を消耗し、結局国力が衰えしたところで北方の清に攻め込まれて滅亡している。だから明国は倭寇で始まり倭寇で終ったとも言える。この国で名将とされたものは、みな倭寇討伐の功労者だったとも言われる。

その明国は16世紀半ば、倭寇の根拠地雙嶼で大掃討作戦を行い、倭寇は追われて南下する。そしてさらに追撃を受け、一部は東の台湾へ向かった。

台湾でもまず倭寇が拠点を構えたのが澎湖諸島である。ここは台湾本島とは異なり、11世紀あたりから支那人が大量に移住しており、元の時代には役所(巡検使)も置かれていた。ところが明国は、またしてもここで愚行に出ている。つまり「そこに人がいるから倭寇が来る、人がいるから倭寇になる」との理由で、住民をみな大陸に移住させ、島を廃墟にしてしまったのだ。廃墟になればかえって倭寇のアジトになるだけだろう。

やがて澎湖も明国軍の攻撃を受け、倭寇はさらに東進して台湾本島に逃げ込んだ。このようにして15世紀半ば、中華世界圏外にあった台湾は倭寇の巣窟として、支那の史書に登場するようになったのである。

当時最大の倭寇となっていた林道乾なども澎湖から台湾に入っている。彼は「台湾の住民」として最初に史書に登場する人物だ。林乾道は傘下に多数の日本人が入り込んだため、やがて統制がきかなくなって、南方に去って消息を絶つ。高雄の寿山には「埋金山」との別称があったが、それは彼がそこに金塊を埋めたという伝説からだ。

その後大勢力を築いた林鳳という大倭寇も台湾に拠った。彼の副将は日本人で、フィリピンの占領を試みるなど面白い話があるが、今日は時間の都合で話さない。

 <2>列強係争の地として浮上した台湾

 ①ポルトガルの東亜世界参入と「イラ・フォルモサ(可愛島)」の発見

その16世紀半ば、台湾はヨーロッパの世界地図にも登場している。それによると支那大陸に日本半島があり、その南端あたりに浮かぶ小島が台湾だという。地図を作ったのはホーメンというポルトガル人だ。

大航海時代に入ったポルトガルは、1517年には明国に来て通商を求め、朝貢船と認められて広州での交易を許された。しかしこの国は「異教徒の土地は全てポルトガルのものだ」との料簡であり、朝貢体制などに従う気などハナからなかった。そこで上陸後は勝手に城塁を築くなどしたため、明国は懲罰に乗り出した。これが西洋と支那との史上最初の武力衝突だ。その後ポルトガル船は駆逐され、私貿易者、つまり「倭寇」の仲間入りをしたのである。

東アジア世界はポルトガルの参入で大きく変化する。一つは日本を変えた。ポルトガル船は、日本が勘合船を廃止したことに乗じ、日明間を往来して多大な貿易利益をあげていたが、当時ポルトガル人は日本に対し、鉄砲から先進的な築城術、軍事戦術をもたらし、日本を東アジアにおける軍事大国に仕立て上げた。また大船の航海、造船の技術、そして世界の新知識を与え、日本を海洋大国への道を歩ませることになった。

そしてもう一つは何より、中華交易体制を大きく変えたのである。ポルトガル船の参入は貿易経済を活性化させただけでなく、交易圏自体も長崎からリスボンまで拡張させた。

そのため明国としては旧来の勘合体制では賄いきれなくなり、海禁を緩和して福建の海澄から支那人が海に出ることを許したのである。もちろん海禁の見直しの背景には、それが倭寇を猖獗させたことへの反省もあった。それから広州を対外開放した。これによりポルトガルは堂々と明国との交易ができるようになり、1557年には勢いに乗じ、役人に賄賂を渡してマカオに上陸し、街を築いた。これがポルトガル領マカオの始まりである。まさに中華秩序に対する「海洋勢力の挑戦」の勝利だった。

そのような状況の中でポルトガル人は台湾を知る。日本へ向かう途上、それを発見して「イラ・フォルモサ」と叫び(1544年のこととも)、台湾が「フォルモサ」と西洋人から呼ばれ始めたことは知られている。もちろん発見だけで占領まではしなかったが、その後この国の公文書には、「台湾はマカオと同様ポルトガルの附属地だ」と記されている。当時の西洋人にとり、「発見」することは「領有」を意味していたから、そう考えたのかも知れない。よくポルトガル人は台湾には上陸していないとも言われるが、実際は上陸して花蓮や台東の卑南で砂金の取れる川を発見し、ポルトガル語の地名も付けている。しかしこの国は植民より交易を急いでいたため、統治には至らなかった。

なお「イラ・フォルモサ」は一般に「美しい島」と訳され、台湾は日本時代には「華麗島」「美麗島」とも呼ばれ、今日でも台湾人は「美麗島」の別称を誇りにしているが、「フォルモサ」は「美しい」より「かわいい」というニュアンスで、実際は「可愛島」とする方が正確らしい。

 ②東亜制覇を目指したスペインと日本の台湾への関心

ポルトガルの参入で中華の交易秩序は大きく揺らいだが、今度は中華世界秩序そのものを覆そう、あるいは乗っ取ろうとの動きが「海」の側から起こった。

まずそれを狙ったのがスペインだ。この国はポルトガルが東亜で羽振り良くやっているのに刺激され、一五六五年には広東の一部を占領したり、フィリピンの征服を開始するなど、太平洋の彼方の植民地メキシコから、東亜交易圏に強引に割り込んできた。

 スペインはマゼランのスペイン艦隊によって早くからフォリピンを発見していたが、それまでポルトガルの妨害で近づけないでいたわけだが、1571年にはマニラを占領し、そこを東亜の拠点とした。マニラは当時倭寇の交易地として、すでに日本人や支那人が居住していた(マニラと台湾は社会形成において実によく似た歴史的経過を辿っており、注目に値する)。 そこで明国が銀を欲しがっているのを聞いたスペインは、すでに発見していた太平洋横断航路を利用し、メキシコから銀を運んで福建人と交易を盛んに行った。そしてその過程でスペインは台湾の存在を知り、明国あるいは日本進出の橋頭堡として着目し始めている。

ポルトガルにしてもそうだったが、スペインはもともと、異教国への交易、布教、軍事占領を三位一体の国家使命と考えているような国だった。実際この国は当時、自他ともに認める世界最強の軍事大国で、数百人から数千人規模の部隊で東亜各国を占領できると豪語しており、明国に対しても、最も効率的な貿易拡大策として、国を丸ごと占領しようと計画していた。他方、戦に強そうな日本に対しては、征伐は不可能との判断から、いっそ全国をキリスト教に改宗させ、スペインの尖兵として征明に利用しようと考えていた。

明国の征服を目指したもう一つの国が豊臣秀吉の日本だ。その征明構想は、実際朝鮮出兵という形で、1592年に実行に移されている。明国はそれを「最大の倭寇」と位置付けていた。

秀吉の征明については、よく彼の征服欲という形で説明されているが、要するに秀吉は「中華の権威」の権威をさらさら認めていなかったのだ。「権威は自分にこそある。なぜ明国などに各国が跪かなければならないのか」と考えたのだろう。その背景には日本統一を果たしたことからくる自信、そして当時高まっていた神国思想があったことと思う。秀吉のこの事業に関し、後世の日本人は、昭和の戦時中などを除いては概して批判的だが、それは江戸時代の儒学者以来の伝統的評価だ。おそらく支那崇拝の儒学者にとり、中華に弓を引こうとした秀吉の所業は、断じて擁護できるものではなかったに違いない。

さらに征明の動機として最近よく指摘されるものに、スペインの東亜制覇の野望への警戒心がある。つまり秀吉は「明国がスペインに取られる前に、自分が取らねば」と考えたというわけだ。その証拠と言えるかどうかは別として、秀吉は朝鮮派兵中、ポルトガルのアジアの拠点であるインドのゴア、そしてスペインの拠点のマニラに対し、朝貢を要求している。

秀吉はマニラのスペイン総督に、二度にわたって入貢を強要する使者を派遣している。そしてその途上、ついでに立ち寄らせたのが台湾だった。台湾にも朝貢を要求しようとしたのだが、恐らく秀吉の国書を受け取る人がいなかったのだろう。国書は持ち帰られ、今でも国内に現存している。

さてこうした日本の動きの中で、スペインが最も警戒したのが、秀吉が台湾に関心を持ち始めたことだった。そして「もし台湾が日本に取られたら、明国との貿易航路が扼されるだけでなく、マニラも直接脅威に曝される。他方もしスペインが台湾を取れば、日本と明国への前進基地にすることができる」と、台湾領有の主張がマニラで強まった。さらに一五九六年のサンフェリぺ号事件で日本側のスペインへの敵意は一層明らかになった。そこでいよいよスペイン本国は台湾遠征を決定した。もっとも出発の矢先に秀吉が急死したため、結局この計画は沙汰止みとなったが、スペインはこのようにして、東亜制覇における台湾の戦略的位置の重要性に認識を高めたのである。

恐らく秀吉、つまり日本も、同じような考えをもっていたものと思う。日本にとって台湾は支那にも南方にも通じる重要な飛び石である。その重要性を後年再認識したのが、日清戦争における日本海軍で、その主張により台湾を領有することになった。

 ③新興無法国家オランダによる澎湖初占領

秀吉に屈従を要求されながら、なぜ強国スペインが日本征伐に向かわなかったかと言えば、そのような暇がなかったからだ。なぜなら当時スペインと交戦国である新興のオランダが、アジアのスペイン勢力圏に肉薄しつつあったのだ。

スペインは1588年、無敵艦隊がイギリスに敗れ、大西洋の制海権を奪われ、当時スペインに併合されていたポルトガルとともに、すでに凋落の道を歩み始めていた。それに代わって擡頭してきたのがイギリスと、スペインから独立したオランダだった。1600年にはオランダ船はマニラを攻撃している。

そのような状況で17世紀の幕が開ける。オランダはアジアにおけるスペイン、ポルトガルの貿易利益を奪取すべく1602年、バタビア(今のジャカルタ)に東インド会社を設立した。これはインド洋、太平洋地区を統治するための、オランダの代理政府のようなものだ。

1603年、対明貿易拠点を求めたウィブラント率いるオランダ艦隊がマカオを攻撃し、ポルトガルと明国の連合軍に撃退された。そこでウィブラントは北上して澎湖を目指した。彼は支那人倭寇から、「明との貿易拠点は澎湖が良い。福建の役人に贈賄すれば通商もできる」と聞かされていたのだ。その頃澎湖はすでに倭寇の巣窟ではなく、秀吉の南進計画を受け、明国の軍隊が駐留していたが、ちょうど部隊交替の空白期に当り、ウィブラントは難なく占領を果たした。これが台湾地区における西洋人の初占領だ。

当時オランダ部隊には日本人兵士が20数名加わっており、明国は日本軍が来たと勘違いして相当狼狽したらしい。それでも金門島の軍司令官沈有容はオランダに対し、「大軍をもって攻撃する」と威嚇したため、ウィブラントは衆寡敵せず、占領2ヶ月目にして撤退している。

これに明国側は大いに喜び、澎湖に「沈有容、紅毛人ウィブラントを諭して退かせる」との、いかにも中華思想的な記念碑を建てた。その後この碑は忘れられてどこかへ行ってしまったが、日本時代にたまたま発掘され、戦後は中華民国が「中華民族英雄の顕彰碑だ」と言うことだろう、1級古蹟(日本でいえば国宝)に指定している。

もっとも明国の喜びは糠喜びで、オランダはふたたび澎湖に帰ってくる。そしてその後、台湾本島を占領するわけだが、その前に台湾征服に着手した国が日本だった。

 ④徳川幕府の台湾遠征と目覚めざる明国

17世紀と言えば日本は徳川幕府の時代だ。1635年に鎖国令が布かれる以前は、秀吉晩年からの南進ブームで、東南アジア各地には日本人町が作られていた。台湾は日本人町こそなかったものの、南進船の停泊地として日本人が多く居住するようになり、澎湖とともに日明間の私貿易の中継基地となった。その台湾を徳川家康は欲しくなったらしい。肥前の領主有馬晴信に台湾調査を命じた。もし台湾に政府があれば、日本に朝貢させたいとも考えていたようだが、日本人はまだ台湾の実情がわかっていなかったらしい。

有馬が派遣した部隊は1609年に台湾北部に上陸したが、そこにはもちろんめぼしい物は何もなく、ただ原住民の攻撃を受けただけだった。そこで手ぶらで帰るわけにも行かず、単純で正直な原住民を騙して捕らえ、日本へ拉致した。それを差し出された家康は、「そのような者を連れてきても意味がない。送り還せ」と言ったためこの話は終るのだが、おそらく記録の上では、この原住民たちが最初に日本に来た台湾人だろう。

続いて家康は、今度は長崎代官の村山等安に台湾征服を命じた。そこで村山は1616年、14隻の大船を仕立て、4千の兵を乗せて勇ましく出撃したが、途中暴風雨に遭って艦隊は散り散りになってしまった。村山らの3隻はベトナム南部まで流された(翌年帰還)。他の3隻は台湾北部の今の新竹あたりに辿りついて上陸したが、内1隻の乗組員100名ないし200名は原住民に包囲され、みな自決したのだという。残りの7隻は支那方面に向かい、出会う支那船を攻撃してまわった。そこでかの沈有容と海戦となり、1隻が撃沈されている。

この功績で沈有容は福建水師提督に昇進した。その後村山等安はやりすぎたと思ったか、沈有容に礼を尽くして通商を求めたが拒否されている。

そしてこの時注目すべきは、「日本には台湾に指一本触れさせない」と沈有容が宣言したことだ。日本の台湾進出の動きに、明国側ではようやく台湾の国防上の重要性に気づき始めたらしい。しかしその認識はあくまでも少数の文武官だけのものであり、朝廷は相変わらず台湾に何の措置も取っていない。

ここに支那人官僚の特質を見て取ることができる。つまり東南の海に続々と海洋列強が進出しているにもかかわらず、「中華の権威」だけにすがっている彼等には、それに対処する知恵も勇気も百年の大計もなく、ただ海の無秩序を放置するだけだった。

なお、もし日本が領有していたら台湾はどうなったか。ここをめぐって対外戦争にでもなっていただろうか。鎖国後もそれを放棄しなかったとしたら、ここだけは密入国、密出国の拠点か何かになっていたかも知れない。日本が統御するには、台湾はあまりにも海に開かれすぎている。

 <3>「平和の海」現出で国際貿易拠点として躍り出た台湾

 ①オランダを台湾に引き込んだ倭寇の慧眼

17世紀初め、平戸はオランダとイギリスが商館を設けたため、日本の貿易窓口として大いに栄えたが、実はすでに福建人の交易者、つまり倭寇がここを拠点に早くから活動していた。その中で最大実力者だったのが李旦という人物だった。彼は幕府から御朱印まで貰い、オランダやイギリスと提携しながら日本、明国、フィリピン間の海域にたくさんの船を走らせていた。彼の腹心は鄭成功の父親で、やはり福建人の鄭芝竜である。

もう一人の有力者に顔思斉という者がいた。彼は後に幕府に睨まれて台湾へ逃げ、そこで初めて大量の支那人移民を呼び寄せたことで、台湾史に名を残す人物であり、海上勢力の大首領にもなっていた。彼の腹心もやはり鄭芝竜で、実は顔思斉は李旦と同一人物ではないかとの説がある。

その李旦だが、彼は非常に面白いことをやっている。1622年、オランダが再び澎湖を占領し、明国に通商を強要して拒絶され、戦闘にもなっていた。そして明国軍に包囲されて進退谷まっていたのだが、李旦はまずポルトガル語ができる鄭芝竜をオランダ軍のもとに派遣して連絡ルートを確保するとともに、福建の貿易パートナーである許心素にも連絡した。許心素は対オランダ包囲軍の副司令官でもある。李旦は彼に、「オランダを攻撃せず、台湾へ引き取ってもらえ。そしてその見返りとして明国との通商を認めてやれ。その後は俺とお前とオランダで手広くやろう」と持ちかけた。

これを受けて許心素の明軍はオランダ軍と交渉し、台湾へ引き下がらせたのである。このようにして1624年、オランダの台湾統治時代が始まった。オランダは今の台南を拠点に、来航する支那船を相手に交易を開始した。

 ②鄭芝竜「海上王国」による交易圏の秩序化

一方李旦はというと、その翌年死去してしまう。彼の思い描いたオランダとの提携構想は実現しなかっただけでなく、この要の人物を失った海上は、交易諸勢力、つまり倭寇の制海権争いの場と化した。

その中で最も優勢だったのが、オランダと提携した許心素である。それに対して李旦(あるいは顔思斉)の勢力を引き継いだ鄭芝竜は制海権の掌握を目指し、まず明国に出頭して倭寇取締の軍司令官ポストを求めた。しかし当時その軍職にあったのが許心素たちである。そこで鄭芝竜はその拠点であるアモイ(福建省)を攻撃し、軍司令官を追い出し、許心素を殺害して、司令官の地位を奪い取ることに成功した。

その後は官軍を用いてライバルの倭寇勢力を次々と傘下に納め、1635年には最後の強敵劉香を打倒して、中華を取り巻く海域を手中に収めた。

ここで注目すべきは、明国の貿易拠点が、朝廷から指定されていた交易港の海澄から、実質上鄭芝竜の拠点アモイに移ったということだ。つまり明国も手を出すことのできない一つの海上王国がここに形成されたということではないだろうか。

そして海上では鄭の旗を掲げない船は航行できないといわれるまでになり、斬った張ったの海にようやく秩序が打ち立てられた。つまり「平和な海」が現出したわけだ。

そもそも海のルールは、海上勢力にとっては死活問題であり、海を知らない無能な大陸国家ではなく、海上勢力でなければ確立できないものだ。

このような視点から、もし今日この海が、所謂「中国の海」になってしまったらどうなるかを考えることも重要だ。

 ③伸び行く台湾―オランダの海洋貿易基地建設

台湾に拠ったオランダは、倭寇と組んで明国に自由貿易を強要しようと考えていたが、その倭寇勢力が鄭芝竜に吸収されてしまったため、当初の夢は破れてしまった。そこで「禍転じて福と為す」で、台湾の開発に乗り出した。まず福建から移民を呼び寄せ、米と砂糖の増産を行った。また原住民には税金代わりに大量の鹿を捕獲させた。

そして日本へは砂糖と鹿皮を輸出した。鹿皮は雨に濡れても強いということで、陣羽織に用いられて大好評だった。また米と鹿の肉は食糧が不足する明国に売った。さらに明国の生糸や絹織物などを日本へ大量に運び、バタビアからの南方の物産は明国へ持ち込み大いに稼いだ。

順調だったのはそれだけではない。その頃宿敵スペインも台湾北部、北東部の統治を開始し、南部のオランダに対抗していた。この国はオランダを軍事的に牽制するだけでなく、相変わらず日本、明国への布教、交易、軍事進出を目論んでおり、そのための前進基地として台湾を重視していたのだ。ところが支那では明と清の戦が始まっており、貿易は伸びない。日本もキリシタン禁制(反スペイン政策)を解かないどころか鎖国してしまった。結局台湾を拠点とする意味がなくなり、フィリピンでの反乱鎮圧のため駐留兵力の四分の三を削減したところでオランダに攻め込まれ、1642年、台湾から追い出されてしまった。オランダは南部だけでなく、北部まで手中に収めることになった。

オランダの台湾での貿易は伸びる一方だった。砂糖はやがてオランダ本国まで運ばれるようになり、この島は国際貿易ルートの重要拠点として華々しくデビューすることになったのだ。アジアでの全オランダ商館があげる利益のうち、日本商館が全体の約四割で台湾商館が約三割だったが、日本商館の利潤が全て台湾からの商品によるものだったことを考えれば、台湾の重要性がいかに大きかったかがわかる。

この貿易基地としての繁栄の要因としては、当時海が平和になっていたこと、そして対日貿易で最大のライバルだった日本の御朱印船が鎖国のため途絶えたことなどが挙げられるが、やはり何より、武力を行使してまで支那と深く関わるようなことを止めたことが大きかったと思う。

「支那から遠退いてこその台湾の繁栄」ということについては、次に詳しく実証したい。

 <4>中華に呑み込まれて閉塞した台湾

 ①東寧王国―中華から切り離された「幸福の10年」

一六四四年に明国は清国に滅ぼされた。ではその時鄭芝竜はどうしたかというと、翌年福建省に南明政権を樹立したものの、次の年にはあっさりと清国に帰順している。海で巨大な富を築いた彼は、当時福建の大地主となって王侯貴族なみの生活をしており、「陸の財産」を守るためには、戦争などをするわけにはいかなかったのだ。かつての海の王者も、陸に上がれば普通の支那人だったということだ。

しかし息子の鄭成功は父親と違い、徹底抗戦の道を選んだ。そのため彼は現在、明国への忠義を貫いて満州人と戦ったとして中華の英雄に祭り上げられているのだが、実際は「海上の財産」を守ろうとしただけではないのか。支那の民族性に照らせば、忠義よりも「今ある海の勢力、利益を放棄してまで帰順することはできない」と考えた、と見る方が妥当かと思うが、どうだろう。もっとも戦前の日本人にあった「日本人の母から忠義を学んでいた」との見方も、家庭教育が人の思想、信条を大きく左右させることを考えれば、それもあり得ないことではないが。

鄭成功は国際貿易で戦力を養いながら新中華と渡り合ったが、結局劣勢に立った彼は1661年、根城を安全地帯の台湾に移すことを決め、二万五千の大軍を以って、まずそこのオランダ人を駆逐した。突然「中華の戦乱」がやってきたのだから、気の毒だったのはオランダだった。鄭成功は蒋介石のように台湾の大陸反抗基地化を図ったが、翌年死去した。

その後を継いだ息子の息子の鄭経は、1664年に全軍を大陸から台湾へ撤退させた。しかし彼が蒋介石と違ったのは、ここで大陸反抗を放棄したことだ。鄭成功は台湾(台南)を東都と改めたが、彼はさらに東寧と改称した。つまり「明の東の都」から、大陸の戦乱とは関係のない「東の安寧の地」としたわけである。そして自ら東寧王と名乗って独立国家を作り、国際貿易に専念した。イギリスもこれと通商条約を結び、商館を設けた。清国は海禁の最たる遷界令(沿岸部の無人化・廃墟化)を下して交易活動がストップしたため、海は鄭経の独壇場だった。また清国には台湾を攻める海軍力もなかったため、台湾は再び貿易で大繁栄を築き、住民の奢侈ぶりが社会問題になるほどだった。

1674年までの台湾は、オランダ時代と同様、中華世界との関係を断ったとことで「幸福の10年」を送ることができたのだった。

 ②鄭経の「反抗大陸」で潰えた繁栄

台湾の鄭一族の支配についてはこれまで鄭成功だけがクローズアップされるが、それはのちの台湾の支那人統治者からすれば、彼はオランダを駆逐した民族の英雄、支那の制度、文化の移植の切っ掛けを作った功労者、あるいは大陸反抗の大先輩であり、また日本人統治者から見れば日本人の血を引く英雄だったからだろう。だが実際彼はそれだけの人物で、台湾には一年も暮らしていない。それより実質的な台湾の建設者は鄭経だ。彼の実績の方が、台湾史を眺める上でははるかに重要である。

もっとも台湾の建設と発展は、南支で三藩の乱という大規模な抗清戦争が始まったことで頓挫する。反乱軍側から参戦を要求された鄭経は、福建省の要衝を譲るとの条件に目が眩み、1675年、勇躍大軍を率いて出陣したのだ。再び台湾は、中華世界の戦乱に関わってしまった。

鄭軍を待ち受けていたものは中華大陸特有の、敵も味方もない泥沼の内戦だった。結局鄭軍は沿海部にまで押し戻されたものの、幸いにも清国側から、「台湾に帰れ。降伏も朝貢も必要ない。日本のように台湾は台湾で独自にやれ」との和議の申し入れがあった。ところが当時鄭経は、すでに支那人の血が呼び戻されていたようだ。つまり「中国統一病」である。彼は「地に二王なし」とばかりに、和議を拒否した。このようにして清国に、台湾攻略の決意をさせてしまった。

見栄を張っていた鄭経も、間もなく台湾への撤退を余儀なくされ、帰国後間もなく死んだ。その頃台湾の富は六年間の戦争ですっかり消耗し、人心も乱れて内訌が激化していた。そこへ清国艦隊が攻め込んできた。二万の大軍を率いるのはかつての鄭成功の武将で、海にも台湾にも詳しい■浪だった。1683年、戦意を喪失していた東寧は、直ちにこれに降伏した。(※■=王に施)

③「中国統一」―海洋国家の終焉

「新中華」である清国は海の要衝台湾を攻略したものの、やはり明国同様、この小さな島には関心がなかった。それよりむしろ例によって、「そこに人がいるから中華に対する攻撃基地になる」と危険視して、支那人住民の大陸送還を始め、台湾を完全放棄しようとした。これに対し「台湾を放棄しては日本人やオランダ人に再び占拠され、かえって危険だ」との反対意見があった。そうした台湾保留論者の代表が■浪である。結局時の康熙帝は彼の意見を容れ、1684年、台湾を福建省に組み入れた。このようにして台湾は、初めて支那の版図に入ったのだった。(※■=王に施。以下同じ)

台湾攻略の軍功により、その南部や澎湖の地を与えらた■浪には、大きな夢があった。それは鄭一族のように台湾を国際貿易センターとして再建し、海上勢力を再構築することだった。そこで長崎との貿易に着手しようとしたところ、これが失敗した。

清国は台湾平定後、明国が厳格な貿易制限を行ったことで、かえって福建の海上勢力を擡頭させてしまったことに鑑み、対外開放を行った。このため清国船が長崎に殺到し、幕府側は渡航制限を行ったのである。そこで■浪の台湾船は政府船であることを偽ったところ、それが発覚して入港が許されなくなったのだ。

このような情勢下で福建の交易勢力も衰退して行く。清国はそれまで対外貿易を独占していた福建から、対南洋貿易の窓口を広州に、対日窓口を浙江の寧波にそれぞれ移したのだ。そのため浙江商人が擡頭した。彼等は台湾、長崎間の貿易ルートも浙江経由となったことで、福建勢力に代わって台湾を牛耳って行った。

余談だが、台湾の王者になり損ねた■浪の末裔は日本統治期の大正時代、当時の鄭成功人気に相当気兼ねをしたらしい。澎湖の■一族は当時改姓を行って「歴史の悪役」の子孫であることを隠し、昨年ようやく百何十名かが■姓に戻ったとの報道があった。

さて18世紀に入り、国内の安定を確保した清国は、再び鎖国体制に入る。このため台湾は国際貿易ルートから離脱し、国内の沿海交易圏の一拠点に過ぎなくなった。さらなる発展の力を秘めていたこの島は、中華世界に呑み込まれることによって閉塞してしまったのである。

今日台湾は海洋国家として発展しつつある。そこでしばしば台独派、本土派から「台湾の歴史は海洋国家として始まった。台湾人は海洋民族だ」と叫ばれているわけだが、実際は清国統治時代、「海洋国家、海洋民族」の色彩はすっかり褪せてしまったというのが事実ではないか。いくら「海を乗り越えてきた移民の子孫だ」と強調しても、それは「農耕開拓移民の子孫」と言うのが正確だろう。

19世紀に入り、台湾の海上貿易における「戦略的位置」を再発見し、その領有を考えたのがイギリス人でありアメリカ人、そして日本人だった。台湾人が、国力を背景に海外に進出して異民族と渡り合うというダイナミックな「海洋民族性」を本格的に身につけ始めたのは、南進が唱えられた日本時代、ことに末期の大陸・南方経営期になってからだとしか考えられない。この短期間で得た海洋進出のノウハウがあってこその、今日の「海洋台湾」だと思うのだが、その後、蒋介石の大陸反抗時代に、再度台湾が停滞状態に陥っていたことは周知のことである。

台湾は二度と中華のブラックホールに呑み込まれてはならない。あまり指摘されていないが、現在の台湾経済の大々的な「西進」(支那進出)には、台湾人の「海洋民族性」だけではなく、それとは相矛盾する「中華民族性」が大きく作用している。つまりいまだそのような残滓があるために、「統一」という中華の磁力に抗いきれず、非常に危険な状態にあるのだ。

もし台湾が支那に併呑され、東亜の海が「中国の海」になったとすれば、日本にとっても致命的だ。日本はそれこそ支那の「朝貢国」に堕して、その意向、統制に従いながら生きるか、へたをすれば国家の存亡を賭けて支那相手の大東亜戦争をやらなくてはならなくなる。

日本と台湾の海洋国同盟は、何も「親台湾派」だけの夢ではなく、日本にとっては唯一の選択肢だということを、今後さらに訴えて行かなくてはならない。(終)



WUFI Web-site 台湾独立建国聯盟ウェブサイト


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