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李登輝氏来日歓迎の記 永山英樹 2003/10/24

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李登輝氏来日歓迎の記  
■永山英樹/台湾研究フォーラム事務局長  2003/10/24
本稿は2001年の李登輝前総統の訪日直後に、『不二』6月号(発行・不二歌道会)に掲載されたものですが、『台湾の声』では若干の修正を加え、三回に分けて連載します(肩書きは当時のまま)。

一、崖っぷちでの日本の選択

李登輝前総統に代表される台湾の老世代は戦時中、日本国民として日本のために戦い、そして戦後の反日政権下でも、「親日」との誹りを受けつつも、なお日本に愛着を抱き、理解し、支持してきた。ところが日本人はそのような彼らに感謝するどころか、台湾の併呑を目論む中国に迎合し、総統時代の李氏の来日を阻止するなど、侮辱にも等しい冷淡な態度を取り続けてきたのである。これは国の道義に関わる問題であり、台湾人に対する日本人の「借り」はあまりにも大きいと言わざるを得ない。

その李氏が四月十七日(※平成13年)、病気治療の目的で、日本政府に入国ビザの申請を行ったのである。もし今回政府がビザを発給するなら、それは日本人にとっては台湾人に「借り」をいくらかでも返すこととなり、かの老世代に対しては、おそらく日本の国家としての善意を伝えるギリギリのチャンスとなるかも知れない。しかしもし逆に、既に総統職を退いた私人であり、しかも高齢の病人でもある李氏に対し、なおも中国を恐れてその来日を拒否するなら、今度ばかりは間違いなく日本の信用は崩れ去り、台湾の親日姿勢は大きく後退するだろう。更には中国への「屈服」が日中関係における「原則」として定着し、日本の国の威信は大きく失墜するだろう。

つまり日本は崖っぷちにおいて、国家の道義と気概を問われたのである。

幸い政府は二十日、李氏にビザを発給した。その背景には、明らかに李氏の入国許可を当然視する国民世論があった。それがあったからこそ「中国寄り」を含む大手各紙も一斉に社説まで掲げ、李氏の来日を支持したのである。

二、高まる「反中、反台」気分

しかし政府は当初発給の決断を渋り続けた。そして李氏に対し密かにビザ申請の取下げを迫るなどの卑劣な行動に出た。これもまた李氏及び台湾そのものへの露骨な侮辱行為だった。李氏はこれを受けて記者会見を行い、こう言った。「日本政府の肝っ玉は鼠より小さい」と。これで会場は台湾人記者たちの笑い声に包まれた。既に台湾では、日本政府の「恐共症(中国恐怖症)」は嘲笑の的になっているのだ。

こうした憂うべき状況を受け、四月十七日から十九日までの三日間、林建良会長率いる「在日台湾同郷会」(以下、「同郷会」)、西村修平氏ら「維新政党・新風」の有志グループ(同「新風」)、そして柚原正敬氏が代表である「台湾研究フォーラム」(同「フォーラム」)が中心となり、外務省門前でビザ発給を求める数十人規模の座り込みデモを行い、シュプレヒコールを叫び続けた。

ちなみに「同郷会」とは在日台湾人の団体で、彼らは彼らで台湾の尊厳と名誉、そして日台関係強化のために立ち上がったのである。

筆者はこの活動を通じ、国民一般がこの問題にかなりの関心を持ち、かつ政府の態度に批判的であるとの感触を強く得た。国会議員の動きにも目を見張るものがあり、百名を超える超党派の議員が連帯して李氏の来日を支持した。その中で外務省に抗議に訪れた西村眞悟、小池百合子、中田洽ら諸議員はデモ隊の激励に立ち寄り、「明日は中国大使館へ抗議に行く」と息巻くなど、頼もしい限りだった。

明らかに国内では、今回の一件を切掛けに「反中国、親台湾」気分が高まった。そしてここに来て、頑なに来日を拒む元凶勢力の存在も明らかになった。それは河野洋平外相(当時)や槙田邦彦・アジア大洋州局長ら、外務省の一部親中派だ。

「李登輝氏来日問題」は多くの日本人を何かに目覚めさせた。そして来日を支持するか否かは、日本人の気概を計る一つの指標ともなった。

三、「政府がわざと流した誤情報か」

二十日に至り、政府はようやく李氏に対し、四月二十二日から二十六日までのビザを発給した。

これに先立ち「新風」と「フォーラム」の間では、これまでの政府の対応の経緯から、「李氏の来日実現の暁には、空港(関西国際空港)で歓迎を行い、惰弱な政府とは異なる日本国民の真情を、李登輝氏と台湾国民に伝えよう」と相談していた。一方「同郷会」でも、関東と関西のメンバーを動員しての出迎え計画を立てていた。そして「二十二日の来日」が確実となった二十日、三者は協力して関東及び関西方面に向け、空港での参集の呼び掛けを開始した。だがこの時点ではまだ、李氏の搭乗機(到着時間)、空港での出迎え可能地点、そして宿泊先(大阪市内を希望する李氏に対し、政府は治療先の岡山県倉敷市に滞在地を限定しようとしていた)すら判らず、だからと言って殆ど時間もなく、全くの見切り発車となった。

これらの情報の収集は林建良氏が行った。しかし来日当日まで、情報は二転三転し、錯綜を極めるのである。例えば搭乗機に関しては前日まで、午前便という他に、午後便という異なる情報があった。当日の歓迎活動の連絡係として電話番号を公開していた筆者のもとへは、台湾の報道関係者から「李氏と同じ便に乗って日本へ行くのだが、午前便が午後便に変更になったとの噂は本当か」との問い合わせが相次いだ。なかには「午後便というのは、我々報道人が李氏と機内で接触することを嫌う日本政府が、わざと流した誤情報ではないか」(日本紙・駐台特派員)というものもあったが、真相は知らない。

このような状況下で取り敢えず、集合と出迎えの地点を、空港内にある一般の「到着出口」と定めた。そこから李氏が出てくるとも思えなかったが、電話で問い合わせた空港職員からは、「他に適当な場所はない」とも言われていた。我々は「例え会えずとも、皆でそこで万歳を唱え、誠意を尽くそう」との気持ちだった。

来日前日の二十一日夜、林氏からの最終的な情報により、李氏の搭乗機が午後六時三十五分に到着し(実際は三十分早まった)、大阪市内の帝国ホテルに投宿することが確実となった。そして空港では、通常の入国審査などを経ず、飛行機から直接車でホテルに向かうことも判明した。

この頃、翌日の来日に沸く関東と関西の「同郷会」メンバーは出迎えの準備を着々と進めていた。一方「新風」「フォーラム」、そして「全日本学生文化会議」(以下、「文化会議」)も参加の呼び掛けを続け、関西の津村忠臣、長谷川潤、増木重夫諸氏からも大きな協力を得ていた。「文化会議」は、日の丸の小旗三千本を用意し、現地で配布する手筈を整えた。

四、大デモさながらの歓迎陣

来日当日の二十二日午過ぎ、関西空港に到着した我々関東グループの先遣隊約十名は、まずは空港周辺で出迎え場所を物色した。ここでも李氏の車の経路を巡って情報が入り乱れたが、警察との協議の末、夕方になってようやく空港脇の沿道に決めることができた。

やがて集合時間の午後五時半、短時間での呼び掛けにもかかわらず、集合地点の到着出口前のロビーは予想を上回る大勢の人々で埋め尽くされた。その数、数百人(一部報道では三百人。実際はそれをはるかに上回っていた)。関東から駆けつけた者も少なくなかった。台湾人が目立つ中、日本人は少なくとも三分の一以上はいたと見たが、定かではない。

六時少し前、我々はまず人々を建物の外に誘導し、そこから出迎え地点へ移動すべく、隊列を整えた。人々が両手で持つのは日の丸、そして台湾の島を象った「同郷会」の会旗(台湾独立派の彼らは中華民国旗を嫌って用いない)だ。中には少数ながら中華民国旗を持つ「華僑」もいたが、心は皆一つだ。だから「前進」の号令で移動が開始されるや、一斉に歓声が上がり、その歩みたるや整然そのものだった。歓迎のプラカードや横断幕も掲げられ、あたかも「台湾支持」を訴える大デモさながらの迫力であり壮観さだった。これを見た報道人らは、夢中でシャッターを切っていた。

六時二十分頃、既に配置に着いていた歓迎陣は、到着した日本アジア航空機の陰から、李氏の乗る黒塗りの車が走り出すのを空港の柵越しに見詰めていた。

やがて空港構内を出た李氏は、恐らく車道前方右側に立つ高速道路の橋桁の向こうで、歓迎の人々が待機していることを聞かされたことだろう。だから李氏は事前に、右側の窓を半分ほど下ろした。そして車が橋桁に差しかかった瞬間、大歓声を上げる群衆の姿と日の丸の波が、突然目に飛び込んで来たに違いない。だから李氏は思わず、身を窓から乗り出さんばかりの勢いで手を振り、それに応えたのだ。

五、「バンザイ」で興奮の坩堝に

最も早く李氏の車が見える位置にいた筆者は、折から巻き起こった日台人の「バンザイ」の嵐の中で、「オー」とばかりに全身で驚きと喜びを表す、その瞬間の李氏の笑顔を見た。

これまで非礼の限りを尽くしてきた日本人の出迎えに、ここまで喜んでくれるとは……。「なぜもっと早く来てもらわなかったのだ」と、申し訳なさで涙が込み上げた。日本人の中には、やはり感動で泣いている者が随分いたようだ。聞けば日本の空港で、これほど日本人に熱狂的に迎えられた外国の元首はいなかったという。「元元首」ならなおのことだろう。

一方の台湾人の一群は、車の通過後も興奮冷めやらぬ様子だった。当たり前である。これまで日本政府が自分たちの元首の入国を許さなかったことが、どれほど彼らの誇りを傷つけてきたことか。皆がこの日を待ちに待っていたのである。

だからこれだけの歓迎ではまだまだ気が済まない。我々は「次はホテルへ行こう!」と呼び掛けた。

実はこの時、帝国ホテルのロビーでは、空港から日本人別働隊が先回りをし、「同郷会」関係者ら大勢の台湾人とともに車の到着を待っていた。そして七時二十分頃、やはり旗とプラカードで李氏を盛大に出迎えている。その彼らから電車で移動中の我々に、「間もなく李氏がロビーに来て挨拶をしてくれるらしい」との連絡が入った。当初暢気に「ホテル周辺で歓迎デモを」などと考えていた我々は、ホテルへ急いだ。

八時過ぎに空港組がホテルに到着すると、ロビーは既に百名を上回る日台人に占拠されていた。そこへほどなく李氏が現れた。忽ちドッと李氏に詰め寄せる群集。場内は「バンザイ」の叫び声で興奮の坩堝と化した。李氏は何かを話そうとしたが、それを断念させるほどの大歓声だった。

李氏は人々と握手を交わし、二分ほどで部屋に戻ったが、それでも歓呼は鳴り止まない。日本人らが「台湾万歳」を叫び続ければ、今度は台湾人の間から「日本万歳」の声が上がった。

六、「歓迎」報じぬ日本のメディア

翌二十三日朝、大阪に居残った我々関東グループの日本人数名は、なおも市民に呼び掛け、大阪市内を見学する李氏を歓迎しようと計画した。しかしこの日午前の李氏の予定は変更が相次ぎ、身動きが取れない。そこで再び帝国ホテルに出向くと、李氏夫妻が散歩のために隣接する川縁の公園に姿を現した。

公園では日台の記者やテレビカメラの一群が夫妻を取り巻き、幅の狭い歩道は大混乱に陥った。「ようこそ」と声を掛ける婦人たちに、李氏が笑顔で歩み寄ると、密着して離れない記者たちは彼女たちを押し潰した。李氏が花を見ようと立ち止まれば、花壇はカメラマンに蹂躙された。こうした異常事態により、三十分を予定していた散策は十分ほどで切り上げられ、日本の最初の朝を楽しもうとした李氏には、何とも気の毒なことだった。

この時の日本側報道陣の加熱振りについてある台湾紙は、「秩序と礼儀を重んじる日本人も、この時ばかりは恐怖さえ感じさせる混乱ぶりだった」と報じ、これを「台湾に対する負い目の意識と中国の圧力への不満を交えた李登輝コンプレックスの表れだ」と解説している。

確かに日本人記者たちには多かれ少なかれそのような意識があっただろう。しかし実際の報道に、それがどれだけ反映されただろうか。その後ホテルを離れた我々は、日刊各紙を買い集め、前日の空港での歓迎に関する報道を見て驚いた。どれもが一様に「台湾人が出迎えた」「台湾の旗が振られた」とあるだけで、日本人の歓迎には殆ど触れていないのだ。

各紙の記者は現地で、間違いなく大勢の日本人を見ている。実際筆者も記者たちに、多数の日本人が来ていることを説明しているし、日の丸の旗の波も見ていないはずはない。それでも敢えて「日本人」を報じないのは、多分中国への配慮からだろう。もし「日本人が李登輝を大歓迎」と報じれば、忽ち中国から「反中国の宣伝をした」と、各紙は睨まれかねない。

当時台湾の記者たちは空港到着直後で現地にはおらず、これら日本側のニュースに依拠した報道をするはずだ(事実大方そうなった)。これに我々は落胆した。これでは「台湾に日本人の真情を伝える」との当初の目的は達成できないからだ。

最早引き下がることのできなくなった我々は午後になり、「事の真相」を台湾の記者たちに伝えるべく電話を掛け、あるいは直接帝国ホテル内のプレスセンターに出向いて説明をした。ただそこでは既に何社かが日本に現出している「李登輝熱」を感得し、それを報じる準備に掛かっていることを知り、幾分救われた気持ちになった(ある日刊紙記者は、日本人の「歓迎秘話」に強い関心を寄せ、記事として取り上げてくれた)。

この日の夜、我々は大阪を離れた。

七、驚くべき「台湾」の威力

李氏は翌二十四日、治療のため大阪から倉敷市内の病院へ向かった。国民の多くがその病状を案じる中、テレビのニュースが不見識にも大きく映し出したのは、病院付近で来日に抗議する中国人たちの姿だった。しかし現地では、彼らを遥かに上回る数の「同郷会」や「文化会議」のメンバー、そして二百人もの一般市民が、暖かく李氏を迎えていたのである。

二十六日午前、李氏は帰国の途に着いた。当日早朝、ホテルの出発時間を掌握した林建良氏の呼び掛けで、約百人の台湾人が見送りのためホテルのロビーに集まった。平日朝のため、ここに駆けつけることのできた日本人は「文化会議」の図越寛氏一人だった。図越氏は日の丸の小旗百本を持参した。そして台湾人によって振られる日の丸に見送られ、李氏は空港へと向かった。

ちなみに日の丸と言えば、李氏滞在中の二十五日、都内では『台湾論』を著した小林よしのり氏に対する感謝の集いが「同郷会」によって催されたが、会場では李氏に贈るべく、参加者による来日歓迎の寄せ書きの日の丸が作られた。

これは上記の如く、マスコミに「抹殺」された日本人の「歓迎の真心」を何としても李氏に伝えようとの、林建良氏の友情的配慮に他ならない。

さて、今回の来日を通じ、日本人の台湾に対する好感、友情、同情心がどれほど同国に伝わったかは判らない。入国を許可したとは言え、政府が来日した李氏にとった言論(政治的発言)の自由や移動(滞在地)の自由の制限といった「隔離措置」は、日本に不誠実さが依然としてあることを台湾人に強く印象付けてしまっている。

それにしても日本人の精神に今回ほどの作用を及ぼした「李登輝=台湾」の存在の大きさ、威力の大きさには驚かされた。来日はものの見事に、一般国民に良識と気概を取り戻させた感がある。そしてやはりものの見事に、それまで傍若無人な振る舞いを見せていた親中派をとことん追い詰め、彼らの対中隷属の卑屈真理を剥き出しにさせた。それは河野や槙田だけではなく、田中真紀子・新外相などもその一例だ。彼女は李氏の帰国後、中国の政治プロパガンダと全く軌を一にする露骨な李登輝批判発言を行い、その下劣な人格を曝け出すことになった。

日本人はこれら親中派に今後如何に対処すべきか。それについてはまず、これを外交政策以前の日本人としての品格の問題として捉えなければならないだろう。

外相である田中の無礼な発言で再び汚された日本の信頼を回復するためにも、堂々たる、そして誠意ある姿勢を台湾に示すよう、政府に求める努力を続けなければならない。



WUFI Web-site 台湾独立建国聯盟ウェブサイト


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