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『台湾論』その4 近代化と知識人の誕生 羅福全 2005-08-29

『台湾論』その4 序文 近代化と知識人の誕生 2005-08-29 17:29:47
羅福全
拓殖大学創立100年記念出版より転載
台湾論 その4/月刊・台湾協会・会報(一八九八~一九○七年)から
序文:羅福全


近代化と知識人の誕生



台湾代表処代表
国連大学高等研究所名誉教授
羅福全


「台湾のインテリとして台湾史を知らず」の一言はこの世代の台湾人知識人として耳に痛いばかりか、台湾人である誇りが大きく傷つけられるものである。

拓殖大学創立百年を記念して「台湾論」シリーズが出版させることは、当時の資料を整理復刻することによって後世のさらなる研究の手助けになるばかりでなく、台湾社会の歴史認識を深めるのに大いに役立つであろう。

私は最近台湾の近代化は二十世紀の百年と考えるようになった。二十世紀以前の台湾は中国清朝時代の前近代的社会形態の延長線上にあり、たとえ一部分の近代化の兆しがあっても、それはまだ社会構造の変化(social structural change)には至っていなかった。政治制度はもとより、当時の台湾には近代的な教育・経済制度などがほぼなかった上、島内のインフラの整備もかなり遅れていた。そのため、人々は部落を中心とした生活を営み、台湾島内の東西南北のコミュニケーションよりも、大陸の出身地との関係のほうが密接であったといわれている。さらに、土地などの資源をめぐって、村落間の紛争が絶えず繰り返され、時には小規模の反乱にまで発展するほど、大清帝国の台湾統治は徹底していなかった(1)。

しかし、二十世紀の百年を経て台湾は劇的な変化を遂げた。二十一世紀の今日、台湾の一人当たりの国民所得が一万四千ドル台に達したことによって、国連の定義では既に発展途上国から卒業したことになる。一方、政治制度についても、ここ数年の台湾における民主政治の確立によって先進国の仲間入りを果たした。この百年の近代化が実を結び、台湾社会は先進国である初期条件を満たしたのである。この観点から見れば、二十世紀の百年がまさに台湾近代化の歴史でもあるといえる。

時系列に整理すると、台湾近代化の百年の前半(一八九五年~一九四五年)は日本統治下の植民地であり、後半は(一九四五年~現在に至る)内戦に負けた国民党による権威主義的な統治と、九○年代からの民主化になる。いずれにしても、この百年の台湾——そして近代化——中国大陸から隔離された独自のプロセスであった。しかし、戦後台湾における歴史教育は「反抗大陸」という国是を実現するために、「再中国化(re-sinicization)」に重点がおかれていた。そのため、歴史教育は専ら中国古代史から民国初期まで、中国大陸での出来事を中心に施されていた。台湾という島についての歴史は全くといっていいほど歴史教科書に登場しなかった。学術機関においても台湾史の研究が行われるはずもなかった。殊に台湾における日本植民地統治は、中国にとって屈辱的な敗戦による結果であっただけに、意図的に歪曲・無視されてきた。ゆえに、多くの台湾人は、台湾がどのようなプロセスを経て、近代化の道を辿ってきたのかについて断片的な知識しかない。

すでに多くの研究が日本の台湾統治によってもたらされた様々な建設の意義について言及しているので、ここで繰り返すつもりはない。本書に収録されている資料が、植民地統治の初期において日本人が精力的に行ったさまざまな調査の結果をも十分に物語っている。だが、折しも神戸の川崎製鉄で台湾新幹線に使用される車両のお披露目(二○○四年一月三○日)に出席してきたばかりであるため、鉄道を素材に台湾の近代化について一言述べたい。一八九五年に日本が台湾を占領した時、台湾における経済の基礎整備は杜撰であった。何より、台北から最南端の恒春まで郵便を送るのに七日半を要し、道路は村道級、鉄道は基隆から新竹までの六二マイルのみであった。本書の最初に収録されている「台湾案内(四二号)」においても、この劉銘伝によって築かれた鉄道のことが記されている。しかし、台湾領有のわずか五年後の一九○○年、日本は台湾全土に張り巡らされる幹線道路の約七○○○キロを完成し、一九○八年には西部平原縦貫鉄道を開通させた。植民地統治の後半になると、台湾における鉄道は公営一五○○キロ、私営三○○○キロの規模に達していた(2)。交通・通信システムの整備は経済基盤の近代化の一環であり、植民地時代の基礎建設は後の台湾における経済発展にも重要な役割を果たした。そして、縦貫鉄道の開通から約一○○年後の現在、新幹線という日本の技術によって台湾の鉄道が再び新たな一歩を踏み出す(3)。歴史の流れを身にしみるほど感じた出来事である。台湾が初めての新幹線技術の輸出先となったのも、運命的としか思えない。

台湾の近代化百年の前半であった植民地時代が及ぼしたもう一つの極めて重要な変化は、近代教育制度の定着であった。経済の基盤建設と同様に、人的資源の形成は、植民地台湾の統治においても重要であり、近代教育性はそれを実現する方法であった。そのプロセスと成果にいち早く注目し、克明に描いた先駆者が、林茂生博士であった(4)。

林茂生氏(一八八七~一九四七)は台湾人最初の東京帝国大学卒業生(一九一六年)であり、その後アメリカに留学し、そこでは台湾人初の博士号(コロンビア大学、一九二九年)取得者になった。その博士論文は、日本領台の最初の二五年間に実施された学校教育をめぐって、多くの統計資料に基づいての検証と優れた分析である。序文においては、以下のように述べている。「日本が一八九五年に台湾を領有したとき、(日本人統治者たちは)この島が本国の明治維新以前の状況とあまり変わりがないことを悟った。故に、日本は本国の近代化の経験をもちこみ、この島において今日までに一世代掛けて近代化に努めた。日本は最善を尽くし、法と秩序、交通整備、経済発展、生活の向上と衛生環境改善に成功した。その次が教育問題であるが、日本に対する最も厳しい批判者でも、台湾の歴史上、これほど広く行き渡った教育制度の難事業を完成させた事を否定することはできないであろう。」

このような考えに至った根拠を、林茂生氏は自らの博士論文において示している。まず、教育予算は台湾総督府総予算の実に一一パーセントを占めており、非常に高い比率であった。そして、台湾を領有して約三○年になる一九二六年には、台湾の日本人学校を含めると、初等教育学校は八六○校、台湾人のみの就学率は三○パーセントで、台湾人と日本人の合計就学率五○パーセントを超えていた。より驚異的であったのは、日本本国へ留学する台湾人の数であった。一九二二年に日本における台湾人留学生は二四○○人余りであったが、その六年前の一九一六年に台湾の初等学校をを卒業した学童が推計一万一○○○人余りとされていた。つまり、単純計算すると、初等教育を終えた台湾人学童のうち、五名に約一人が六年後には日本に留学してきたということになる。植民地政府の近代教育制度と同時に、台湾人の教育に対する熱心さは、脱帽するほどのものであった。

こうした近代教育制度の導入は台湾社会に根本的な変化をもたらすことになる。後の台湾にとって最大の資産の一つである知識人階層も近代教育制度によって誕生したのである。日本の統治や日本本国への留学を経由して「文明開化」に接した多くの台湾人は、知識人としての自覚が芽生えたと同時に、自らの故郷である台湾のあるべき姿を考え始めた。林氏が日本に留学した時期(一九一○年代)を前後して、台湾人知識人による台湾民族運動が始まった。その先駆者は東京における台湾人留学生の一団であった。時は大正デモクラシーと、第一次大戦後、アメリカのウィルソン大統領が植民地解放をめぐって民族自決を提唱した時代であった。彼らは、一九一九年に「台湾は台湾人の台湾たらざるべからず」の理念に基づいて東京在住の台湾人学生百余名によって「啓発会」を結成した。翌一九二○年に新民会に組織名を改めたと同時に、機関紙「台湾青年」を創刊した。東京は台湾人留学生を中心とする台湾民族運動の拠点となっていった。同時に、台湾においても林献堂を中心に「台湾文化協会」(一九二○年)が結成され、一九二六年には会員数が千二百人に達した。台湾に帰国した若き新知識人は「台湾文化協会」を中心に民族運動を展開した。林茂生氏も一九二一年に台湾文化協会評議員に選ばれ、文化協会夏季学校教師として、若い世代に台湾文化の講義をつとめた。これらの知識人の運動は戦後台湾民主化運動の精神にも大きく寄与し、台湾アイデンティティの礎となった。

つまり、日本の明治維新でも見られたように、新しい知識人の形成は少なくとも二つの側面において社会を本質的に変化させる。その一つは近代教育の普及と蓄積によって、新しい知識と技術を身につけた人材が生産性を向上させ、経済発展を可能にする。台湾における近代教育制度の導入は、戦前、前後に渡って、間違いなく「台湾奇跡」の原動力になったといえる。第二に、新しい知識人階層は、近代化を推し進める過程において、近代国家のあるべき姿をどう追求するかを模索するのである。日本語を習得し、それを経由して文明開化に接した台湾人留学生は、日本で反植民地社会運動を点火し、初期の台湾民族運動に着手した。

このように、台湾近代化百年の歴史を探索する際に、植民地台湾の歴史を熟知せねばならないのである。台湾近代化百年の軌道は植民地統治によって敷かれたが、その歴史を知ってこそ、台湾知識人たるものである。この四巻に収録されている諸稿が、より多くの人々にとって台湾を知る素材を提供してくれることを願ってやまない。

(1)若林正丈「台湾——変容し躊躇するアイデンティティ」第2章。ちくま新書(東京)二○○一年。

(2)王育徳・宗像隆幸「新しい台湾——独立への歴史と未来図」第6章。弘文堂(東京)一九九○年。

(3)台湾新幹線開通は二○○五年一○月に予定されている。

(4)林茂生「日本の統治下における台湾の学校教育」古谷昇、陳燕南訳。拓殖大学海外事情研究所(東京)二○○四年。なお、林茂生博士の生涯と博士論文についての紹介は、拙稿「台湾近代化の礎となった日本統治時代の学校教育」正論(平成一五年八月号)を参照。



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