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存亡の危機に瀕した台湾(上) 宗像隆幸 2005-06-10

存亡の危機に瀕した台湾(上) 2005-06-10 11:09:37
宗像隆幸
月刊『自由』2005年7月号、東京・自由社発行

存亡の危機に瀕した台湾(上)
米国は台湾に対する政策を転換すべきだ

       2005年5月9日   アジア安保フォーラム幹事 宗像隆幸

目    次

 1、 序 言 
 2、 台湾に悲運を招いたカイロ声明
 3、 蒋介石軍による台湾占領が、台湾の悲劇の始まりだった
 4、 2・28事件
 5、 白色テロ
 6、 朝鮮戦争と米国の「中国封じ込め」政策
 7、 格子なき牢獄
 8、 台湾独立運動
 9、 台湾問題解決の絶好のチャンスを逸す
------------------------------------------------------


1、 序 言

 アメリカのブッシュ大統領は、2005年1月20日の大統領就任演説で、世界に向かってこう呼びかけた。

 「世界の平和は、自由を世界中に拡大することによって達成できる。すべての国で民主化運動と制度の発展を求め、それを支持することが米国の政策であり、最終的な目標は世界の専制政治を終わらせることだ。必要なら、われわれは自分たちと友好国を守るために武力行使も辞さない。」

 「専制国家に住み、希望を失っているすべての人びとは、米国が抑圧されている人びとを無視することなく、抑圧者を許さないことを知るだろう。あなた方が自由の側に立つとき、われわれはあなた方に味方する。」

 ブッシュ大統領は、自由(freedom とliberty )という言葉を42回も使って、世界中の専制国家に住む人びとが民主化運動を推進することを呼びかけ、米国は自由のために闘う人びとの味方であると約束したのである。

 ブッシュ大統領は、同年2月2日に行った一般教書演説でも、「自由の中で最も重要なのは、恐怖からの自由である」と強調して、専制権力の恐怖政治(terrorism)に苦しめられている人びとが自由のために闘うことを激励した。

 ブッシュ大統領の「自由演説」は、現実に裏付けられているから、説得力がある。ブッシュ大統領は武力を行使してアフガニスタンとイラクの専制独裁政権を打倒し、両国では米国の援護の下で民主的な選挙が行われた。特にイラクの国会議員選挙では、テロリストたちの威嚇に屈せず58%もの有権者が投票を行って、自由のために闘う強い決意を示した。これらの事実が専制独裁政権に支配されている人びとを勇気づけ、中東では「民主化のドミノ現象」と言われるほど民主化闘争が高まりを見せ、民主化運動は世界各地に波及しつつある。

 しかし、不思議なことに、台湾では米国政府の圧力によって、民主化の推進が阻止され、民主化運動は窮地に立たされている。

 第2次大戦後、中華民国(中国国民党政権)が連合国の一員として台湾を占領した。蒋介石を絶対的な独裁者とする中国国民党政権は、台湾を戦利品として扱い、その財富を収奪し、恐怖政治(terrorism)によって台湾人を支配した。蒋介石政権は、中国語(北京語)の使用を台湾人に強制したが、中国語と台湾語では英語とドイツ語ほどにも違うから、当時、中国語を解する台湾人は殆どいなかった。台湾人は、言葉までも奪われたのである。

 蒋介石とその息子・蒋経国による独裁政治は42年間も続いた。1988年に蒋経國が病死した後、台湾人の李登輝総統の指導下で民主化が推進されて、台湾は自由な社会になった。しかし、この自由はまだ法律によって裏付けられていない。現在もなお、中華民国憲法が台湾で施行されているからである。中華民国憲法は、1947年に中国で中国人によって制定された中国憲法であり、この憲法は現在の中華人民共和国とモンゴル国の全領土を対象としているが、台湾は対象に含まれていない。これほど奇妙な憲法は、台湾以外に世界のどこにもなかろう。法的には自分たちを対象にしていない外国の憲法を押しつけられている台湾人は、現在自分たち自身で自分たちの憲法を制定するために国民運動を展開している。

 デモクラシーは、自分たちで自分たち自身を統治する政治制度である。すなわち、自分たちが直接に制定した法か、自分たちが選出した代表を通じて制定した法に従うことが、デモクラシーの基本原則なのだ。台湾人が自らの手で自分たちの憲法を制定しない限り、台湾の法的民主化は完成されないのである。ところが米国政府は、台湾憲法の制定に反対している。絶えず中国の武力行使に脅かされている台湾人は、自国の防衛に米国の協力が不可欠であることをよく理解しているから、米国政府の出方には敏感に反応せざるをえない。米国政府が台湾憲法の制定に反対したことによって、台湾の政治は混乱に陥ったのである。

 中国が台湾憲法の制定に猛反対しているので、台湾海峡の緊張を高める台湾憲法の制定は望ましくない、というのが米国政府の立場である。中国が台湾憲法の制定に反対するのは、中華民国憲法が廃棄されたら、中国が台湾を征服する根拠が失われるからだ。国際法から見れば、台湾は中華人民共和国の領土であるという主張には如何なる根拠もない。中国共産党は、1949年に中華民国を滅ぼして、中華人民共和国を創建した。このとき中華人民共和国は中華民国が持っていた全ての権利を継承したというのが、中華人民共和国の主張であり、それは広く国際社会でも承認されている。中華民国を名乗っている団体は、中華人民共和国に対する叛乱団体であり、中華人民共和国はこの叛乱団体を鎮圧する権利を持っていることになる。中華人民共和国は、台湾を征服するために必要な軍事力を備える日まで、台湾に中華民国憲法を維持させようとしているのである。従って、現在の米国の対台湾政策は、将来の戦争の火種を温存する行為に他ならない。

 台湾問題を解決する唯一の方法は、中国大陸とは全く関係がなく、台湾のみを領土とする台湾憲法を制定して、世界の他の国々と同じように台湾を国際社会に迎え入れ、台湾を国際的な安全保障体制に組み入れることである。そのためには、現在の米国の対台湾政策は変更されなければならない。

 世界の民主化を訴えるブッシュ政権が、台湾の法的民主化を阻止し、戦争の火種を温存する政策を取っているのは、台湾の歴史と現実をよく理解していないからであろう。台湾問題が発生したのは、第2次大戦後が終結したとき、米国が中華民国政府に台湾の占領を命じたからである。もし、台湾の歴史と現実を知っていたら、米国は決してこのような失敗を犯さなかったであろう。台湾人は、ブッシュ大統領の「あなた方が自由の側に立つとき、われわれはあなた方に味方する」という言葉を疑っていない。台湾人は、米国政府が台湾の歴史と現実に基づく正しい対台湾政策に転換することを心から期待しているのである。

2、台湾に悲運を招いたカイロ声明

 西太平洋の日本列島とフィリピンの間に位置する台湾は、けっして小さな島ではない。台湾の面積は36,000k㎡で、オランダとベルギーの中間の広さであるが、その人口は2,300万人で、オランダの1,600万人、ベルギーの1,000万人よりはるかに多い。台湾には1万年以上もの昔からマライ・ポリネシア語族が住んでいたが、彼らは国家を形成したことがなかった。台湾は3,000mを超える高山が49も連なる中央山脈が南北を貫き、道らしい道もなかったので、彼らは十数の部族ごとに別れて、各地に小さな集落を営んでいた。同じマライ・ポリネシア語族といっても、部族が異なれば言語も異なり、マラリアや猩紅熱などさまざまな風土病が蔓延して都市を形成するには不向きな土地で、全ての部族を合わせても人口は10万人にも満たなかったから、国家が形成されなかったのであろう。

 台湾が世界史に登場するのは、大航海時代に入って、ヨーロッパ人が東南アジアから東アジアにまで来るようになってからのことである。1622年にオランダがシナ(China)の明国の領土だった澎湖島を占領したために戦争になった。1624年、明国はオランダが台湾を占領することに異議を唱えないという条件で停戦が成立し、オランダは澎湖島を引き揚げて台湾南部を占領した。台湾の一部とはいえ、国家権力が台湾を統治したのは、これが最初である。そのあとスペインが台湾の北部を占領したが、これはオランダ軍によって追い払われた。

 1644年、万里の長城を越えてシナに侵攻した清国の満洲人によってシナ人(chinese)の明国は滅ぼされた。1661年、明国の滅亡後も清国に抵抗を続けていた明国の武将・鄭成功が台湾に侵攻し、降伏したオランダ軍は台湾から撤退した。翌年、鄭成功は39歳の若さで病死して息子が後を継いだが、鄭政権は清国に対する抵抗の姿勢を変えなかった。1679年、清国は鄭政権に対して、「台湾はもともとシナの領土ではなく、あなた達が開拓した土地だから、我が国への抵抗をやめて台湾にとどまるなら、休戦しよう」と申し出た。しかし、鄭政権は清国の申し出に応じなかったので、1683年に清国は鄭政権を滅ぼして、台湾を占領した。清国では初め台湾放棄論が有力であった。大陸人の満洲人は、大海の中の島には関心がなかったのである。しかし、台湾を放棄すれば、またヨーロッパ人が台湾を占領したり、海賊の巣窟になるという意見が通って、清国は台湾を領土に編入した。といっても、清国の台湾に対する関心が高まったわけではなく、役人と軍隊を駐屯させただけで、大衆がシナ大陸から台湾に渡ることを禁じ、清朝時代の末期に至るまで、台湾を「化外の地」(王朝文化の及ばない土地)と呼んでいた。それでも飢餓に苦しむシナの貧農達が、禁を犯して台湾に渡ってきたが、殆ど男ばかりだったので、彼らは先住民の女たちと結婚して子孫を増やした。

 1894年、日本と清国の間で戦争が起こり、翌年に締結された平和条約によって、台湾と澎湖島は日本に割譲された。日本が初めて獲得した植民地だったこともあり、日本は世界の植民地の手本とする意気込みで台湾の開発に取り組んだ。まず、衛生管理をきびしくして風土病を絶滅させると同時に、教育を普及させ、インフラストラクチャーを整備し、工業を建設した。日本領になったときの台湾の人口は約250万人だったが、日本統治時代の50年間に人口は約600万人に増えている。

 1945年、日本は第二次世界大戦に敗れて連合国に降伏した。日本が降伏文書に調印した同年9月2日、マッカーサー連合国最高司令官は一般命令第1号を発令した。これはアジア各地に展開していた日本軍が誰に降伏すべきかを指示した命令であって、米軍の日本占領やソ連軍による満洲占領、中国国民党軍による台湾占領などは、全てこの命令に基づいている。蒋介石に台湾占領を命じることになったのは、1943年にカイロで開かれたローズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中華民国総統の3同盟国首脳会談の後で発表された声明に、「同盟国の目的は、………台湾および澎湖島のような日本国が清国人から盗取した全ての地域を中華民国に返還することにある」と書かれていたからであろう。しかし、台湾と澎湖島は米国のものでも英国のものでもなかったのだから、米国の大統領や英国の首相にそれを処分する権限があるはずはない。戦争に伴う領土変更は、平和条約によって決定されるのが国際法の原則である。カイロ声明にも、それは連合国の目的の一つであると書かれているだけで、平和条約によって確認されない限り、国際法上の効力はない。日本に対する降伏勧告であるポツダム宣言に、カイロ声明の中の国際法上無効の条項が書き加えられたからといって、それが有効になるはずもない。

 しかし、カイロ声明が蒋介石政権に台湾を占領させる原因となり、台湾人は40年間も蒋政権の恐怖政治に苦しむことになったばかりか、「台湾問題」という国際的な難題を生じさせることになったのである。かつて清国の領土であった台湾を中華民国に「返還」するという条項そのものが、この地域の歴史に対する無知の産物であったことを示している。

 清国は満洲人の国家であり、満洲人がシナを植民地として支配したのと同じように、台湾も清国の植民地にされたのである。20世紀に入って清国に対するシナ人の抵抗が高まってきたとき、後に「中華民国の国父」とされる孫文が掲げた「滅清興漢」というスローガンがシナ人の共感を呼んだのは、シナ人が被植民地人として満洲人に支配されていたからである。1912年に清国が滅ぼされて中華民国が成立した後も、中華民国の指導者たちは台湾に対して全く関心を示していない。1936年に中国共産党の毛沢東主席は「台湾の独立を支持する」と言明したが、これは彼も台湾を中国の領土とは考えていなかったことを示している。

 シナに「中国」と称する国家が誕生したのは、中華民国が最初である。中華民国の略称が「中国」であり、中華人民共和国の略称も「中国」である。ところが英文訳では、中華民国も中華人民共和国も、中国(Zhongguo)を使わず、シナ(China)を用いているために、漢字を知らない人びとはその違いを理解できないようだ。シナ(China)は、地理的名称であると同時に、この土地に建設された歴代の国家をも意味している。シナに建設された国家は、シナ人が建設した国家よりも、非シナ人がシナを占領して建設した国家の方が歴史は長いのである。

 カイロ声明には、「日本が台湾と澎湖島を清国人から盗取した」と書かれているが、これは盗取したのではなく、平和条約によって清国から割譲されたのだから、間違いなく日本の領土であった。台湾と澎湖島は蒋介石が要求したのではなく、カイロ会談でローズベルトが突然言い出したのだ。それが蒋介石にとって全く思いがけない申し出であったことは、蒋介石に随行した側近が『蒋介石伝』の中に書き残している。カイロ会談が行われた頃、蒋介石政権は日本軍によって中国の奥地の重慶に追いつめられていたから、ローズベルトは蒋介石が日本との単独講和によって連合軍から脱落せぬよう激励するため、台湾のことは深く考えもせずにあの申し出を行ったのであろう。

 同じことは、ローズベルト大統領の後を継いだトルーマン大統領にも言える。当時の中国と台湾の情況を認識していたら、蒋介石軍が台湾を占領すれば、どんな悲劇が生じるか、容易に予想できたはずだからである。カイロ声明にあのような条項があっても、蒋介石軍に台湾を占領させる必要はなかったはずだ。日本と同じように米軍が台湾を占領していたら、第二次大戦後にアジア、アフリカで巻き起こった植民地独立運動の嵐の中で、経済的にも文化的にも進んでいた台湾は、どこよりも早く独立を達成していたことであろう。

3、蒋介石軍による占領が、台湾の悲劇の始まりだった

 1945年10月17日、約12,000人の国民党軍が米第7艦隊の艦船で台湾の基隆港に上陸した。国民党軍の兵士たちは、綿入りの汚い軍服を着て、軍靴ではなく農民用の地下足袋をはき、鍋釜をぶら下げ、鶏の入った籠を担いでいる者もいた。彼らはおしゃべりをしながら、隊列を乱して歩いており、規律正しい日本軍を見なれた台湾人の目には、放浪者の群のように映った。それでも台湾人は、彼らを大歓迎した。

 半世紀にわたる日本教育で、台湾人の多くは自分たちを日本人であると思うようになっていた。大戦で日本人に劣らず勇敢に戦った台湾人は、日本人と同じように敗戦で大きなショックを受けた。ところが蒋介石政権は、台湾人に対して「お前たちは日本人ではなく、中国人なのだ。お前たちは祖国の懐に帰ってきたのだ」と呼びかけた。敗戦国民が一転して戦勝国民になったのである。台湾人が喜んだのも当然であった。

 10月24日、蒋介石から台湾における一切の行政権と軍権を与えられた陳儀大将が幹部を率いて米軍機で台湾に到着した。翌日、台湾総督の安藤利吉大将と陳儀大将の間で降伏式が行われ、台湾における日本の権力は全て中華民国に引き渡された。日本の国有をはじめとする一切の公有資産、民間企業の資産、個人の私有財産も、全て敵性資産として中国国民党に接収された。50年間にわたって日本人が台湾で形成した厖大な資産が、一瞬のうちに労せずして国民党の物になったのである。台湾の日本資産を接収した国民党は、それを中華民国の資産や中国国民党の資産にしたが、幹部たちが横領した物も少なくない。共産党独裁国家の場合と同じように、国家の財産も党の財産も区別はなかったから、国民党は世界一の超大金持ち政党になったのである。行政官庁も裁判所や警察も、日本人が去った後の上級幹部職はシナ人が独占し、台湾人がかなりの数を占めていた中級幹部職さえシナ人にその地位を奪われる者が少なくなかった。行政官庁も裁判所や警察も、コネクションと裏金が物をいうようになり、日本時代に確立された法治制度は、たちまち崩壊した。 シナ人は台湾で米や砂糖を台湾銀行券で買いあさり、中国へ運んでぼろ儲けをした。なんの裏付けもなく増刷される台湾銀行券は猛インフレを巻き起こした(4年後の1949年には4万分の一のデノミネーションが断行されている)。このようなシナ人による収奪 のために、戦争中でさえ食料不足が起きなかった豊かな台湾で、飢餓が発生する有様だった。国民党の支配に対する台湾人の不満は日一日と募り、国民党の占領から1年あまり過ぎた1947年になると、台湾はちょっとした火花でガスが爆発するような情況になっていた。

4、 2・28事件

 1947年2月27日の夕刻、台北市内で国民党の官憲が闇タバコ売りの老婆を捕まえて、タバコと売上金を没収した上に老婆を殴打した。通行人がその周囲に集まり、その乱暴なやり方を非難すると、官憲は発砲しながら逃走し、銃弾を受けた一人の市民が即死した。その噂はたちまち市内に広がり、翌日には憤慨した人びとが行政長官公署(現行政院)に抗議に押しかけた。憲兵隊が彼らに機銃掃射を浴びせて数十人の死傷者を出したことから、台湾人の武力抵抗に発展した。台北市の放送局を占拠した人びとは、情況を伝えて台湾人の決起を呼びかけたので、武装蜂起はたちまち全台湾に広がった。国民党軍は台湾各地の軍事基地に立てこもり、陳儀行政長官は交渉によって問題を解決するそぶりを示した。台湾人は代表を選んで事件の処理委員会を組織し、3月7日に台湾の高度自治や基本的人権の保障などの政治改革を陳儀に要求した。しかし、3月8日から9日にかけて国民党の援軍が台湾に上陸すると、陳儀の態度は一変した。国民党軍は道路などにいた台湾人に対して無差別に銃弾を浴びせ、彼らが屋内に隠れると、今度は計画的な逮捕を始めた。武力抵抗の再発を恐れた国民党は、主として大衆に影響力を持つ有力者や知識人を逮捕し、その多くを殺害したのである。見せしめのために公開銃殺にされた有力者もいれば、何人も数珠つなぎにされて、生きたまま海や川に放り込まれた若い知識人たちもいた。この2・28事件で殺された台湾人は、2万人とも3万人とも言われている。

 台湾人を動物のように扱い、台湾人には想像もできなかった残虐なやり方で人間を殺す中国人を見て、台湾人は自分たちは中国人ではなかったのだと思い知らされた。2・28事件は、台湾の歴史の一つの分岐点になったのである。

 アメリカ政府は、蒋介石に援助を与え、顧問団も派遣していたのだから、国民党の極度の腐敗も、その権力が恐怖政治(terrorism)によって支えられていることも知っていたはずである。1949年8月に米国務省が公表した「中国白書」には、国民党政権の極度の腐敗と恐怖政治も、2・28事件のときに国民党政権が台湾で行った無差別殺戮や計画的な台湾人指導層の殺害も詳述されている。

 もし、第2次大戦が終わった時点で、アメリカ政府が台湾は中国より文化的にも経済的にもはるかに進歩した法治社会であることを知っていたら、蒋介石政権に台湾を占領させた場合に起こる悲劇を予想できたはずであり、米軍が台湾を占領していたのではなかろうか。米軍が占領していたら、その後の台湾がどうなったか、日本の例を見れば、だいたい想像できる。

 日本は1868年の明治維新で封建制度を廃止して中央集権体制を確立したが、すぐに急進的な民主化を求める自由民権運動が起きた。日本の近代化は、官民の一致した願望であった。日本政府は、西ヨーロッパの近代民主主義と立憲君主制を目標として、民主化を推進した。20世紀に入ると、日本では大正民主主義(1912~1926年)と呼ばれたように、民主主義を謳歌した時代もあったが、ロシア革命の影響でマルクス主義の勢力が強まり、それに対抗して右翼の力も強まった。これは、西ヨーロッパで起きた政治的現象と全く同じである。西ヨーロッパでは古い民主主義の歴史を持つ英国やフランスでは、自由主義者が民主主義を守り通したが、民主主義の歴史が浅いドイツとイタリアでは左翼と右翼に挟撃されて自由主義は弱体化し、ナチスとファシストが政権を取った。日本でも同じように自由主義は弱体化したが、日本にはナチスやファシストのように強力な右翼は存在しなかったので、右翼と結んだ軍事官僚が政治の実権を握るようになり、1930年代になると、日本の国会は次第に機能しなくなった。しかし、日本が降伏すると、国会はたちまち機能を回復し、米占領軍と協力して日本の民主化を推進した。

 台湾でも日本の民主化の影響を受けて、戦時色が強まる1934年までは台湾議会設置運動が行われていた。戦争中においても、日本の高等学校などでは自由主義の勢力が強く、台北高等学校は台湾における自由主義のメッカであった。もし、米軍が台湾を占領していたら、台湾人自由主義者と米占領軍の協力によって、日本と同じように台湾は民主化したことであろう。蒋経國の死後、恐怖政治の時代を生き延びた李登輝総統(1942年に台北高等学校を卒業)を初めとする自由主義者を中心として、台湾の民主化が推進された事実を見れば、そのように想像することは決して不当ではなかろう。

5、白色テロ

 大戦が終わって1年もたたないうちに、中国国民党と中国共産党の合作は崩壊し、内戦が再開された。国民党と共産党の戦いでは、軍隊による表の戦いに劣らず、特務機関による裏の戦いも重要だった。特務機関というのは、各種の秘密情報機関であるが、共通する最大の任務は権力の防衛である。国民党にも軍隊にも官公庁や学校、大企業にも、特務機関が隅々まで監視網を張りめぐらせて、人びとを見張った。中国国民党と中国共産党は、「一卵性双生児」と言われるほどよく似ているが、いずれもソ連共産党を手本にして組織されたのだから当然である。中国国民党が中国に割拠していた軍閥を制して、曲がりなりにも中国を統一できたのは、ソ連の援助と指導があったからだ。中国共産党はソ連共産党の外郭組織であるコミンテルン(Comintern)の中国支部として設立されたのだから、ソ連共産党は、中国共産党の生みの親であり、中国国民党にとっては育ての親と言えよう。ソ連の圧力で両党は合作して、毛沢東主席以下、中国共産党員は党員の身分を維持したままで中国国民党に入党していた。しかし、両党はお互いに敵であることを認識していたし、いずれ雌雄を決せざるをえないこともわかっていた。

 内戦が再開されると、両党の特務たちは脅迫と買収で相手側の切り崩しをはかり、邪魔者は暗殺することも躊躇しなかった。1948年になると、中国共産党の優勢が明らかになり、国民党軍から共産党軍に寝返る者が続出した。国民党は台湾の安全性を確保するために、台湾で信用できない人びとを大量に投獄し、あるいは殺害した。このような国民党のテロは、「白色テロ」と呼ばれた。

 1947年12月に施行された中華民国憲法は、内乱平定中という理由で翌年5月に公布された「動員戡乱時期臨時条款」によって、実質的に施行が停止された。1949年5月、国民党は台湾全土に戒厳令を敷き、軍による支配を合法化した。1987年まで38年間続いた世界史上最長の戒厳令である。集会、ストライキ、請願、デモなど一切の示威行動は厳禁され、デマをとばした者、暴動を企てた者、ストライキなどにより秩序を乱した者、学生ストを指導した者などは死刑と定められた。国民党を批判しただけで一般市民が叛乱罪容疑で特務機関に逮捕され、秘密軍事裁判で最低7年の懲役を科された。この白色テロで数万人が死刑に処され、数十万人が政治犯監獄に投じられたのである。

6、朝鮮戦争と米国の「中国封じ込め」政策

 1949年10月1日、内戦に勝利を収めた中国共産党は、中華人民共和国の成立を宣言した。国民党政権は、台湾に逃れた。国民党軍の虎の子の空軍、海軍、戦車隊は、すでに台湾に移動していた。台湾海峡の幅は、ドーヴァー海峡の約4倍、150㎞もあるから、まだ海軍も空軍も殆ど持っていなかった中国共産党が台湾を攻撃することは不可能だった。台湾を「反攻大陸」の拠点と位置づけた蒋介石は、中華民国が中国の正統政府であると主張して、中国共産党政権の打倒を唱えた。

 しかし、国際法の観点から見れば、台湾に移った時点で主権国家としての中華民国は滅亡したと言えるであろう。中華民国政府は台湾、澎湖島とその人民を支配していたが、台湾、澎湖島は法的にはまだ日本の領土であった。人民と国際法で認められた領土とそれを統治している政府の3条件が揃っていなければ、国際法では主権国家として認められない。国際法で認められた領土を持っていない中華民国は、主権国家ではなく、蒋介石政権は台湾を占拠して中国政府に抵抗している亡命政権と言うべきでものであった。

 ソ連を盟主とする共産主義諸国は、中華人民共和国が成立すると、すぐ承認した。1950年1月には英国が、自由主義陣営の先陣をきって中華人民共和国を承認した。間もなく世界の国々が、中華人民共和国を承認することになると見られていたが、情況を一変させたのは、1950年6月25日に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の軍隊が韓国(大韓民国)に侵攻して朝鮮戦争が始まったことである。6月27日に国連安保理事会は、韓国を支援して北朝鮮軍を撃退することを国連加盟国に要請する米国案を採択した。ソ連は安保理を欠席していたために、この米国案に対して拒否権を行使できなかったのだ。中華人民共和国を中華民国に代えて国連に加盟させるソ連案が安保理で否決されたことに対する抗議の欠席であった。同日、トルーマン米大統領は、米軍に朝鮮半島への出動を命じると同時に、「台湾の法的地位は未定である」と言明し、第7艦隊を台湾近海に派遣して台湾海峡の中立化を宣言した。これは台湾防衛のためというより、国民党軍が中国を攻撃して米国が中国の内戦に巻き込まれることを恐れたからであろう。

 トルーマン大統領が「台湾の法的地位は未定である」と言ったのは、日本が平和条約で台湾を放棄することは既定方針になっていたが、日本が放棄した後の台湾がどこに帰属することになるのか未定であるという意味であろう。1951年に日本と連合国の間で平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されて、日本が台湾と澎湖島を放棄することは決定されたが、その帰属については何ら決定されず、台湾と澎湖島の法的地位は未定のままで残されたのである。

 朝鮮半島に出動した国連軍の指揮権は米国に与えられたので、トルーマン大統領はマッカーサー元帥を国連軍最高司令官に任命した。国連軍が北朝鮮軍を中国との国境近くにまで追いつめた1950年10月、中国軍が北朝鮮軍を助けるために介入し、朝鮮戦争は一進一退を繰り返す激戦になった。

 中国と戦うことになった米国では、中国の共産化を許した過去の対中国政策がきびしく批判され、朝鮮戦争で多数の犠牲者を出したために、米国民は激しい反中国感情を抱くことになった。このような国内事情を背景に、米国政府は「中国封じ込め政策」を採用して、蒋介石政権を強化するために大量の軍事・経済援助を与えた。そのことは台湾経済の発展を促進して、台湾人の利益にもなったが、米国は蒋介石を「反共」の英雄のように扱い、蒋介石政権の白色テロには目をつむった。

 米国が中華民国の国連安保理常任理事国の議席を擁護したのも、中華人民共和国の国連加盟を阻止するための「中国封じ込め政策」の一環であった。しかし、中国大陸の全ての領土を失い、国際法で認められた領土さえ持っていない中華民国に、国連で中国を代表させておくのはあまりにも強引なやり方で、大きな後遺症を残すことになった。

7、格子なき牢獄

 米国が台湾防衛に協力することになったので、中国共産党軍による台湾攻撃は心配する必要がなくなった。しかし、それで蒋政権が安心できたわけではない。2・28事件は、台湾人だけでなく、蒋政権にとっても恐怖の思い出となっていたからである。あのときは中国からきた援軍によって、台湾人の武力抵抗は粉砕された。しかし、再びあのような事件が起きた場合、蒋政権はどこからも援軍を呼ぶことができない。しかも、1950年1月以来、国民党軍を強化するために台湾人を徴兵するようになっていたから、彼らが武装蜂起した台湾人に味方する恐れもあった。

 そこで権力防衛のために、蒋政権は徹底的な台湾人の中国人化教育を行うと同時に、絶えず台湾人に恐怖を与えることによって、彼らの抵抗心を封じる政策をとった。まず、台湾人に対する中華思想の注入である。中国は世界で最も古い偉大な歴史と文化を持つ大国であり、中国人は世界で最も偉大な民族であるという中華思想によって、台湾の青少年は徹底的に教育された。この偉大な中国人の指導者として蒋介石は神格化され、蒋介石の率いる国民党軍は強力な日本軍を打ち破って、同胞である君たちを解放したのだ、と台湾人は教育された。その偉大な蒋介石が中国大陸から追い出されたことについては、中国共産党ではなくソ連の力によるものであり、中国共産党はソ連の手先にすぎない、と説明された。だから、蒋介石の下に一致団結して反攻大陸を行い、共産党政権を倒して同胞を解放せねばならない、と言うのである。小学校から大学まで、教えるのは中国の歴史と地理だけで、台湾の歴史と地理が一切無視されたのは、台湾人に台湾人意識を持たせないためであった。

 しかし、日本時代を知っている台湾人は、それが嘘で固めた教育であることを知っていた。20万人もの台湾人が日本軍に従軍して戦ったが、日本軍を破ったのは中国軍ではなく、米軍だった。台湾の軍事施設や都市を爆撃したのも、中国軍ではなく米軍だった。日本の官僚は清廉で汚職をせず、治安も良かった。たしかに台湾人は、日本人から2級市民として扱われたが、法を無視して投獄されることもなかった。日本時代と蒋政権になってからの台湾社会を較べれば、天国と地獄の差があった。しかし、日本時代を知らない子供たちに、そのことを話すのは命の危険を意味した。子供たちがそれを口外して国民党特務の耳に入れば、たちまち逮捕され、叛乱罪で処罰されたからである。叛乱罪で何十万人もの台湾人が投獄され、銃殺された人も少なくなかったが、実際に叛乱を企図した人は殆どいなかった。恐怖政治の目的は、叛乱容疑者を摘発することではなく、政権に対する抵抗心を起こさぬよう、絶えず台湾人に恐怖を与えることだったから、特務たちの気紛れで誰でも逮捕される可能性があったのである。

 1994年、台湾の民主化を推進していた李登輝総統は、司馬遼太郎に対して、「かつてわれわれ70代の人間は、夜にろくろく寝たことがなかった。子孫をそういう目に遭わせたくない。夜、安心して眠れる国にしたい」と語った。この言葉は,白色テロ時代の台湾の情況を的確に表現している。当時の台湾では、外部から情報が流入することも、台湾から外国に行くことも厳しく統制されていた。この時代の台湾を、台湾人は「格子なき牢獄」と呼んだのである。

8、台湾独立運動

 大学や専門学校を卒業しても、台湾人は将来に希望を見出せなかった。官庁や公立学校などの要職はシナ人が独占していた。台湾の大企業の殆どは旧日本企業であり、国民党に接収されていたので、ここでもシナ人が要職を独占していた。国民党の幹部たちは、息子や娘をアメリカやカナダなどに移住させて、台湾で獲得した巨額の資金を彼らに送り、台湾が危険になったら何時でも逃げ出せるように用意していた。一方、若い台湾の知識人たちは、将来への希望もなく、政治犯として何時逮捕されるかもしれないという不安に脅えながら、悶々とした日々を過ごしていた。蒋政権は、彼らのうっ積した憤懣が爆発することを恐れたのであろう。大学または専門学校を卒業して兵役をすませた上に留学試験に合格した者に限り、出国を認めることにしたのである。格子なき牢獄に開かれたこの小さな出口に、台湾の若い知識人たちは殺到した。彼らの留学先は、アメリカが圧倒的に多く、次に日本、そしてカナダや西欧諸国であった。いずれも民主国家であり、言論と出版や結社の自由も保障されていた。

 自由な空気を吸った台湾人留学生たちは、台湾が如何に異常な状態に置かれているかを痛感し、蒋政権の恐怖政治を批判しあった。祖国台湾を自由にするのは、自由な国にいる自分たちの責務であると考える台湾人留学生も少なくなかった。

 日本では、戦前から日本に住んでいた台湾人有志が、2・28事件のときに台湾を脱出してきた人物を指導者に迎えて、台湾独立運動を組織していた。彼らは国連に請願書を送り、台湾を国連の信託統治下に置いた後に住民投票で台湾の将来を決定するよう嘆願した。しかし、中華民国は国連安保理の常任理事国だったから、国連がそのような提案を取り上げるはずはなかった。

 1950年代の末頃から、アメリカや日本、カナダ、西ヨーロッパの台湾人留学生たちも、それぞれ台湾独立運動を組織した。独立運動に参加することは、大変な勇気を必要とする行動であった。台湾人の留学生の多い大学には、国民党の特務が留学生として派遣され、監視の目を光らせていた。台湾人留学生の殆どは、最初から格子なき牢獄に戻るつもりはなかった。しかし、台湾独立運動に参加していることを特務に知られたら、親兄弟に会うための一時的な帰国もできなくなるのである。独立運動に参加したために、台湾の親兄弟が国民党に圧力をかけられる例もあった。だから、独立運動の公開活動に参加した者は少数であり、多くは秘密裏に活動していた。そのような秘密活動を国民党特務に察知されて、台湾に一時帰国したときに逮捕された人びともいる。独立運動に参加することは、時間的にも大変なことだった。留学生に対して貴重な外貨を台湾から送金することは禁じられていたから、留学先で奨学金を貰えた人たちを除くと、アルバイトで生活費と学費を稼がねばならなかった。学業をおろそかにすると、留学生としての資格を取り消されて台湾へ強制送還される可能性もあったから、勉学にも励まねばならなかった。台湾人留学生の大部分は台湾で大学を卒業していたから、留学先は殆ど大学院であった。皿洗いなどのアルバイトをしながら、10万人を超える台湾人留学生が修士や博士の資格を取得したのである。

 このように困難な情況に置かれていたが、台湾人留学生たちは祖国台湾のために台湾独立運動を各地で組織し、それぞれ出版物を出して意見を交換した。台湾に自由で民主的な国家を建設する、という台湾独立運動の目的については、全員の考えが一致していた。しかし、独立運動を実際に推進しようとすると、いろいろな問題があった。まず、問題になったのは、台湾の独立とは何からの独立か、ということであった。台湾独立とは、「中国からの独立である」という意見も少なくなかった。蒋介石政権が「中国の正統政府」を自称していただけでなく、中華民国政府は中国を代表して国連安保理常任理事国の地位を占めていたからである。しかし、現実を直視すれば、中国大陸の寸土も統治していない中華民国政府が、中国の正統政府であるというのは、フィクション以外のなにものでもなかった。「中国とは中華人民共和国である」という見解で、台湾独立運動者の意見は一致した。中華人民共和国は台湾を支配したこともなければ、現に支配していないのだから、台湾独立が「中国からの独立」である訳はなかった。

 その中国は、「台湾解放」を唱え、「武力を用いても台湾を解放する」と主張していた。台湾人は、中国に台湾を解放して欲しいとは思っていなかった。台湾人にとって、中国は危険な外国であり、彼らの目的が台湾を占領して中国に併合することであるのは明白だった。これは、侵略以外のなにものでもない。台湾にとって中国は外国であり、中国の主張する「台湾解放」は侵略であることを簡単明快に説明するために、台湾独立運動は「中国の台湾侵略反対」をスローガンの一つとした。中国は後に「台湾解放」を「台湾統一」と言い変えたが、それが侵略であることに変わりはない。

 では、台湾独立とは何からの独立なのか。

 独立運動の内部で議論を尽くした結果、「台湾独立とは中華民国体制からの独立である」という結論に達し、中華民国体制を次のように定義した。中華民国体制とは、中華民国が中国の正統政府であるというフィクションを前提として、中国国民党の一党独裁を維持し、蒋政権と共に台湾に渡ってきたシナ人が台湾人を支配する制度である。

この中華民国体制が存在する限り、台湾に自由で民主的な国家を建設することはできない。それ故、台湾独立運動は、「中華民国体制の打倒」をメイン・スローガンとし、それに次ぐスローガンを「中国の台湾侵略反対」と定めたのである。

 次に、いかにして中華民国体制を打倒するか、という方法論が議論の的になった。当時は、中国共産党を勝利に導いた毛沢東のゲリラ戦術や、キューバ革命を成功させたフィデル・カストロのゲリラが高く評価されていた。そのような影響を受けて、台湾でゲリラを組織すべきだという意見もあった。しかし、少しゲリラ戦術を研究すれば、台湾でゲリラを組織することは不可能であることがすぐわかった。

 基地なきゲリラは滅びる、というのがゲリラ戦術の鉄則である。ゲリラの基地というのは、そこで武器や食料を調達し、兵員を補充できる場所でなければならない。それは、政権による攻撃から防衛可能なゲリラの領土であると言ってもよい。政府の権力の及ばない地域のある国でなければ、そのようなゲリラ基地の建設は不可能である。台湾は周りを海で囲まれた島であり、道路や交通手段と通信が発達し、権力の支配が全島の隅々にまで及んでいる。こんな国でゲリラなどやれる訳がない。結局、時間はかかるが、台湾を民主化する以外に中華民国体制を打倒する方法はない、というのが結論であった。

 台湾の人口の87%を台湾人が占めており、シナ人は13%にすぎない。しかも教育が発達しているから、台湾人の知識レベルは高い。多数の台湾人が、権力者の命令のままに生きる奴隷的な地位に置かれていることを認識し、自由を求めて民主化を要求するようになれば、軍隊においても台湾人の比率が年々増加しているのだから、国民党もそれを簡単に弾圧することはできないであろう。このような考えから、台湾独立運動は台湾内部に対して自由と民主主義の重要性を訴える宣伝活動に努力を集中したのである。

 台湾独立運動の思想の面で指導的な役割を果たしたのは、日本の独立運動団体が発行していた月刊『台湾青年』であった。1968年に『台湾青年』は、日本、米国、ヨーロッパ、カナダの独立運動団体の共同機関誌になり、1970年にこれらの4団体が統合して台湾独立聯盟(World United Formosans for Independence )が結成されたのである。
 
9、台湾問題解決の絶好のチャンスを逸す

 台湾独立運動者を初めとする多くの台湾人が、台湾の民主化への大きな契機になると期待していたのは、国連において中華民国を中国の代表としているフィクションが解消されることであった。中華人民共和国が中国を代表する安保理常任理事国として国連に加盟し、中華民国は一加盟国として国連に残れば、国連が中国と台湾に別々の国家が存在する現実を承認したことになる。中華民国政府は中国の正統政府である、という中華民国体制を支えているフィクションが国際社会で明確に否定されるのである。

 中華民国の国会は蒋政権と共に中国の各地から台湾に逃げてきた議員たちが大部分を占めており、彼らの存在が中華民国を中国の正統政府とする根拠とされていた。これらの議員たちは、選挙区が共産党に占領されているために選挙を行なうことができないと言う理由で改選されなかったから、台湾では「万年議員」と呼ばれていた。背後に選挙民がいないのだから、彼らに国会議員としての権力がある訳はない。彼らの仕事は高給を貰って政府案に賛成票を投じることであり、国会は国民党独裁の道具の一つにすぎなかった。しかし、国連で中華民国が中国を代表すると言うフィクションが否定されたら、台湾でも万年議員制度を長く維持することはできないであろう。憲法の施行停止も戒厳令も、中国共産党との内戦中であるということが理由にされていた。中国と台湾に存在しているのは別々の国家であることが国連で確認されたら、台湾では戦争が起きていないので、内戦中という理由も通用しなくなる。このような理由から、国連の正常化が台湾民主化の契機になると期待されたのである。

 中国代表権問題は、毎年秋の国連総会で討論されていたが、次第に中華人民共和国の国連加盟を支持する国が増えてきた。1970年の国連総会で、中華人民共和国の国連加盟を支持するアルバニア決議案が賛成51票、反対49票、棄権25票で、初めて賛成票が反対票を上回った。しかし、事前に中国代表権問題は「重要事項」に指定されていたので、アルバニア決議案は否決された。「重要事項」への指定は国連総会の過半数の賛成で決定されるが、いったん「重要事項」に指定された決議案の可決は3分の2以上の賛成を必要とするからである。

 1971年7月、ヘンリー・キッシンジャー米大統領補佐官は、秘密裏に訪中して中国の周恩来総理と会談した後、「来年5月までにニクソン大統領が訪中することになった」と発表して世界を驚かせた。アメリカが中国封じ込め政策を放棄したのである。これで、この秋の国連総会で中国の国連加盟が実現することは決定的になった。米国政府は、「安保理常任理事国として中華人民共和国を国連に加盟させ、中華民国は1加盟国として国連に残す」方針を発表した。問題は、中華民国を国連に残す方法である。アルバニア決議案(国連総会第2758号決議案)は、中華人民共和国の加盟と同時に中華民国を国連から追放するために、中国政府がアルバニアを通じて国連に提出したものである。それには、「中華人民共和国の代表が、国連における中国の唯一の合法的代表であり、蒋介石の代表を国連および全ての国連機関から即時追放する」と書かれていた。

 しかし、中華民国を国連に残すのは、困難なことではなかった。中華民国が安保理常任理事国のポストを返上するだけでよいのである。中国代表権問題というのは、あくまでも中華人民共和国と中華民国のどちらかが中国を代表するのかという問題であり、台湾の代表権は全く問題にされていなかった。安保理常任理事国のポストを放棄すれば、その途端に中華民国は中国を代表する権利を放棄したことになり、中華民国は台湾を代表する1国連加盟国になるのだ。国連加盟国を国連から除名するには、安保理の勧告と国連総会の3分の2以上の賛成が必要だから、アメリカが安保理で拒否権を発動するだけで、中華民国追放は国連総会の議題にもなり得ないのである。侵略戦争を行った国であろうと、国際テロを行った国であろうと、何百万人もの自国民を虐殺した凶悪な専制独裁国家であろうと、国連を除名された国は一つもない。国連加盟国を国連から追放するのは、殆ど不可能なのである。

 それにもかかわらず、1971年10月25日、アルバニア決議案が76票対35票、棄権17票の圧倒的多数で可決され、中華民国は国連から追放されてしまった。それは、中華民国の国連代表権を剥奪する提案は「重要問題」である、という重要事項指定案を米国が国連に提出して、賛成55票、反対59票、棄権15票で否決されてしまい、その直後にアルバニア決議案が採択されたからである。このような重要事項指定案を提出するのではなく、アメリカが中華民国に安保理常任理事国のポストを放棄させていたら、中華民国が国連から追放されることは起こりえなかったのだ。そうなっていれば、中華人民共和国は安保理常任理事国として国連に加盟する以外に選択肢はなくなり、中国と台湾が共に国連に議席を持つことによって、この時に台湾問題は解決されていたのである。

 どうしてアメリカは、このような大失策を犯したのであろうか。当時の中国は、もはや建国当初のような海軍も空軍も持たない国ではなく、核ミサイルまで持つ軍事大国になっていた。それに対して中華民国は、米国との安全保障条約(米華条約)と米国から供与された兵器によって、台湾を防衛していた。もし、国連から追放されたら、中華民国は国際的に孤立してしまい、いずれ米華条約も維持できなくなることは目に見えていた。しかも、中華民国が安保理常任理事国のポストを奪われることは既定事実になっていたのだから、米国があのような重要事項指定案を提出せず、安保理常任理事国のポストを放棄する以外に中華民国の国連議席を守る方法がないと告げていたら、蒋介石はそれを受け入れざるをえなかったのである。

 事実、中華民国の周書楷外相は、国連総会に出席する前の1971年9月13日、蒋政権の幹部たちを集めて、「国連総会に残ることが重要であり、総会に残れば、北京は入ってこないかもしれないし、たとえ北京が国連に加盟したとしても、我々は総会に留まることが必要だ」と説明している。9月15日の『聯合報』は、社説で「国連は我々にとって非常に大きな財産であり。固守するに値する陣地である。たとえ、国連を軽々しく脱退したところで、第2の国連を探し出すことはできないのである」と書いている。絶対的な独裁者であった蒋介石の許可がなければ、外相がこんな発言をしたり、新聞がこんなことを書けたはずはない。蒋介石も国連に残ることの重要性を認識していたのである。

 ところが、駐台湾米国大使は、蒋介石の「中華民国は中国の正統政府である」という何時ものとおりの発言を真に受けて、蒋介石は安保理常任理事国のポストを放棄するつもりはないと報告し、米国政府はそれを信じてしまったようだ。キッシンジャーの訪中は秘中の秘とされたので、ごく少数を除けば、米国政府の幹部たちも突然の対中国政策の転換に驚いていた。そのために台湾問題にどう対処すべきか、深く考慮することなく、米国政府は軽率な失敗を犯してしまったのであろう。こんなちょっとした失敗が、台湾の民主化を遅らせただけでなく、今日まで台湾問題を残すことになったのである。


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