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存亡の危機に瀕した台湾(下) 宗像隆幸 2005-06-10

存亡の危機に瀕した台湾(下) 2005-06-10 11:41:20
宗像隆幸
月刊『自由』2005年7月号、東京・自由社発行

存亡の危機に瀕した台湾(下)
米国は台湾に対する政策を転換すべきだ

       2005年5月9日   アジア安保フォーラム幹事 宗像隆幸

目    次

10、 国連も台湾の法的地位が未定であることを認めた
11、 上海コミュニケはすでに効力を失った
12、 米中国交樹立と台湾関係法
13、 たび重なる政治弾圧を乗り越えて、国民党の一党独裁を打破
14、 台湾の民主化
15、 毛沢東の建国精神と台湾
16、 対極に位置する米国とシナ帝国の建国精神
17、 存亡の危機に瀕した台湾
------------------------------------------------------


10、国連も台湾の法的地位が未定であることを認めた

 中国政府は、1971年にアルバニア決議案が採択されたことによって、国連も台湾が中華人民共和国の領土であることを認めたのだ、と主張している。しかし、これは全くの偽りである。逆に、アルバニア決議案には「台湾の法的地位は未定である」という意味が内包されているのだ。そのことはアルバニア決議案を作成した周恩来がキッシンジャーに話しているのだから、中国政府が知らないはずはない。

 アルバニア決議案を作るにあたって周恩来が苦心したのは、「中華民国の代表を国連から追放する」とは書けないことであった。そう書くと、国連加盟国の除名になるから、国連で採択できない。そこで周恩来が利用したのは、台湾の法的地位未定論である。サンフランシスコ平和条約は、日本が台湾の領有権を放棄することを決めただけで、台湾の帰属については一切触れなかったので、台湾の法的地位は未定のままで残された。これは、米国、英国、日本などの一致した公式見解である。台湾の法的地位は未定なのだから、中華民国は国際法で認められた領土を持っていないのだ。中華民国は1949年に中国大陸の領土を失ったとき、主権国家としての資格も失ったのであり、台湾を占拠して「反攻大陸」を唱えているのは、国家ではなく、蒋介石に率いられた私的集団ということになる。周恩来がアルバニア決議案に「蒋介石の代表を国連から追放する」と書いたのは、このような意味だったのである。しかし、この意味を最も知られたくないのは、中国であった。

 「台湾の法的地位未定」論が国連で話題になれば、如何にして台湾の法的地位を決定すべきか、国連で台湾人民を代表するのは誰なのか、といった問題が生じる。

 1960年の国連総会が採択した「植民地独立付与宣言」には、「すべての人民は自決の権利を有し、この権利によって、その政治的地位を自由に決定し、その経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する」と書かれている。日本が植民地であった台湾の領有権を放棄したのだから、台湾人が人民自決の権利に基づいて台湾の政治的地位すなわち法的地位を決定することを認めるべきだ、ということになろう。

 1966年の国連総会が採択した国際人権規約は、第1条「人民の自決の権利」に植民地独立付与宣言の「自決権」をそっくり受け入れた。国際人権規約が第1条に自決権を掲げたのは、自決権こそが全ての人権の基礎となる権利だからである。自分の生き方を自分で決定する自由を持たず、他人によって自分の生き方を決定されるなら、それは自由人ではなく奴隷である。自分たちの国のあり方を自分たちで決定する自由を持たず、他国によって自国のあり方を決定される国家は、自由な独立国家ではなく、植民地的な従属国である。台湾人が求めているのは、台湾のあり方を自分たち自身で決定する自由であり、その自由を奪って台湾を植民地にしようとしているのが中国なのだ。

 台湾人の自決権が認められたら、中国が台湾を併合することは永久に不可能になってしまう。だからこそ周恩来は、台湾の法的地位が未定であることを前提として「アルバニア決議案」を作成しながら、それが台湾の法的地位未定論を内包していることに気づかれることを極度におそれたのである。キッシンジャーは1971年に2回訪中して、周恩来と14回も会談しているが、周恩来はキッシンジャーに対して、米国が台湾の法的地位未定論を国連に持ち出さぬよう、繰り返し要求している。『周恩来、キッシンジャー機密会談録』には、10月21日に行われた二人の会話が次のように記録されている。(2004年岩波書店刊、P .159)


 周恩来 「この決議案の下では、台湾の地位に関する条項を挿入することは不可能ですし、もしこれが通れば、台湾の地位は未定ということになります。」

 キッシンジャー 「アルバニア決議案でもですか?」

 周恩来 「そのような危険があります。もちろん、アルバニア決議案を支持する国々は、このような側面について考えたことはないでしょう」


 もし、アルバニア決議案の中に「台湾は中華人民共和国の領土である」という条項を挿入すれば、国連で台湾の法的地位が問題になる。そうなると、中国を代表するのはどちらかという問題だけに気を取られていた各国の国連代表者たちも、台湾とそこに住む人びとの権利を忘れていたことに気づくであろう。国際法に照らせば、台湾の法的地位が未定であることは明確なのだから、台湾人民の自決権を擁護する声が高まるのは当然である。それだけではない。中国代表として中華人民共和国が国連に加盟するのは良いが、国連では誰が台湾人民を代表するのかという問題が出てくる。蒋介石政権は台湾とそこに住む人民を統治しているのだから、一般議席まで剥奪するのは国連加盟国の除名に相当するという意見も出てこよう。そうなると、中華民国を国連から追放することはできなくなる。周恩来が恐れていたのは、そのことなのだ。

 周恩来が「もしこれが通れば、台湾の地位は未定ということになります」と言ったのに対して、それがアルバニア決議案を指しているのは当然のことなのに、キッシンジャーは「アルバニア決議案でもですか?」と間の抜けた質問をしている。キッシンジャーは、周恩来と14回も会談を重ねていながら、台湾人民のことは一言も語っていない。彼の念頭には、台湾人のことは全く存在していなかったのであろう。キッシンジャーでさえこうだったのだから、世界各国の国連代表たちは、周恩来が「アルバニア決議案を支持する国々は、このような側面について考えたことはないでしょう」と言ったとおり、それが台湾人民の権利まで奪う行為であることに気づかず、蒋介石の代表を国連から追放してしまったのである。

11、上海コミュニケはすでに効力を失った

 中華民国が国連から追放された後、国連は台湾と台湾人民の存在を一切無視するようになった。しかし、台湾問題が解決された訳ではない。台湾問題は、世界平和を脅かす危険な火種として、年を追うごとに深刻化しているのである。

 国連から追放されたことは,蒋政権にとっても、大きな痛手であった。蒋介石は死ぬまで総統の地位にあったが、政治への関心を失ったのか、1972年5月には息子の蒋経国を行政院長(首相)に任命して、政治の実権を彼に委ねた。国際社会で孤立したために、台湾は国際的な圧力を受けることも少なくなった。台湾の中で蒋政権は、中国の正統政府というフィクションを頑なに守り、それに異を唱えることを許さなかった。蒋政権の恐怖政治が継続されることになり、台湾の民主化への希望は遠のいたのである。

 1972年2月にニクソン米大統領が訪中し、上海で米中共同コミュニケが発表された。この上海コミュニケには、「米国側は、台湾海峡両側の全ての中国人が、中国は唯ひとつであり、台湾は中国の一部である、と考えていることを認識(acknowledge )した。米国政府は、この立場に異議を申し立てない。米国政府は、中国人自身による台湾問題の平和的解決に対する米国政府の関心を重ねて表明する」と書かれている。

 共同コミュニケの最初の草案は、周恩来・キッシンジャー会談の合意に基づき、キッシンジャーが中心になり、国務省には相談せずに作成した。その草案には「台湾海峡両側の全ての人民」と書かれていた。この草案を見せられた国務省の強い要求によって、「全ての人民」は「全ての中国人」に書き替えられたのである。台湾側でもシナ人は皆、「台湾は中国の一部である」と思っていたが、台湾人の多くはそう思っていなかった。恐怖政治下で台湾人は、それを口に出せなかっただけである。キッシンジャーは、台湾人とシナ人の区別すらつかず、いずれ台湾は中国に併合されると思っていたから、台湾のことは重視しなかったのであろう。だからこそ、国連総会を前にした重要な時期に突然、ニクソン訪中を発表して、米国務省ばかりか、中国代表権問題で米国を支持してきた国々まで大混乱に陥れて、中華民国の国連追放という大失態を招いたのだ。あのとき十分に対策を立てる時間的余裕があったら、中華民国を国連に残す方法はいろいろあったはずである。

 2001年に公開された「周恩来・キッシンジャー機密会談録」を読むと、周恩来の方が、キッシンジャーよりずっと優位に立って交渉が行われた感じがする。当時、米軍をベトナムから撤退させるために、米国は北ベトナムと和平協定を結ぶ必要があり、そのために中国の協力を必要としていた。しかし、中国はソ連と対立するようになった結果、世界の2超大国であった米国とソ連の双方を敵に回すことになり、窮地に立たされていた。しかも当時の中国は、毛沢東が発動した文化大革命によって全国民が大混乱に陥っていた。米国が中国の協力を必要とするよりも、中国の方がはるかに米国の協力を必要としていたのである。

 この拙劣な米国の対中国外交によって、台湾人民は苦しみ続けることになり、国際社会には台湾問題という難題が残された。しかし、まだ挽回のチャンスはある。台湾人民の民主化闘争の結果、台湾人民は自由を獲得して、台湾のシナ人と平等な立場で総統選挙や国会議員選挙を行えるようになった。

 上海コミュニケで米国は、台湾の法的地位に触れていない。米国政府は、「台湾海峡両側の中国人が台湾は中国の一部である」と考えている事実を認識しただけである。台湾人の意志を無視して、台湾海峡両側の中国人だけで台湾の将来を決定することは決して許されることではなく、現実的でもない。このような情況の変化により、上海コミュニケはすでに効力を失って過去のものになったと、考えるべきではなかろうか。

12、米中国交樹立と台湾関係法

 上海コミュニケに基づいて、米国と中国は相手国に連絡事務所を開設した。ニクソン大統領は、2期目の大統領に当選した後、中国と正式に国交を結ぶ予定であったが、ウォーターゲイト事件で1974年に辞任した。フォード副大統領がその後を継いで大統領になったが、1976年の大統領選挙で民主党のカーター氏に敗れてしまい、共和党政権は中国との国交樹立を果たすことができなかった。

 1978年12月16日、米国と中国は共同コミュニケを発表して、1979年1月1日に国交を樹立することを発表した。米中両国政府は、今回も秘密交渉でまとめた共同コミュニケを突然発表した。それには、「アメリカ合衆国は、中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることを承認する。この枠内において、米国国民は台湾住民と文化、通商およびその他の非政府間の関係を維持する。」と書かれている。この中国(China)に台湾が含まれているか否か、コミュニケには書かれていないが、米国政府は「台湾の法的地位は未定である」という公式見解の変更を発表したことがないので、この「中国」に台湾は含まれていないと解釈するのが妥当であろう。

 この米中国交樹立によって、米国と中華民国の国交は断絶し、米華相互防衛条約も1979年末で失効することになったが、その後の台湾の安全保障に米国は如何に関与するのか、カーター政権は何ら発表しなかった。台湾では1975年に蒋介石が死去して蒋経国が総統になっていたが、彼は一方的に国交を断絶した米国政府を非難するだけで、米華条約失効後の台湾の安全保障対策を示すことはできなかった。

 この間隙を埋めたのは、米議会が制定した台湾関係法である。台湾に深い関心を抱いていた上下両院議員たちに、かねてから彼らと親交のあった在米の台湾独立運動者たちが協力して、台湾関係法の草案が作られた。この台湾関係法は、上下両院において圧倒的多数で可決され、4月10日にカーター大統領が署名して公布された。短期間で制定されたにもかかわらず、この台湾関係法は、台湾と台湾人民の置かれている苦しい立場に深い理解と同情を示し、米国が台湾の民主化に協力することも定めている。

 台湾関係法の概要は、次のとおりである。

 「西太平洋における平和、安全および安定の維持に寄与し、合衆国人民と台湾人民との間の通商、文化およびその他の諸関係の継続を承認することにより、合衆国の外交政策を推進する。」

 「この地域の平和と安定は、合衆国の政治、安全、経済的利益と合致しており、かつ国際的関心事である。中華人民共和国との外交関係樹立についての合衆国の決定は、台湾の将来は平和方式で決定するという期待に基づくものである。ボイコットおよび封鎖を含め、非平和的手段を以て台湾の将来を決定しようとする如何なる企図も、西太平洋の平和と安定に対する脅威であって、合衆国の重大な関心事である。防衛的性格の武器を台湾人民に提供し、武力に訴えたり、その他の高圧的手段を用いて台湾人民の安全および社会、経済制度を危うくする全ての行動に抵抗するための合衆国の能力を維持する。全ての台湾人民の人権を守り、かつこれを促進する合衆国の目標をここに改めて表明する。」

 この台湾関係法は、適用地域を台湾、澎湖島とその付属諸島と定めており、中華人民共和国の領海内にある金門と馬祖は含まれていない。また、1979年1月1日以前に合衆国が中華民国として承認していた台湾統治当局だけでなく、それを継承する統治当局にも適用されると規定している。台湾憲法の制定によって、中華民国憲法が破棄され、台湾国が台湾の統治当局になった場合も、台湾関係法は引き続き適用されるということである。

13、たび重なる政治弾圧を乗り越えて、国民党の一党独裁を打破

 1970年代の後半に入ると、台湾人の自由と民主化を要求する声が高まってきた。台湾人の力が次第に高まり、それに反比例して、中国国民党の支配力が少しずつ弱体化したことが、その背景にあった。

 まず、台湾人の経済力が強くなったことである。1960年代からから始まった台湾経済の高度成長を支えたのは、台湾人の中小企業による輸出の激増であった。台湾の大企業の殆どは旧日本資産だったので、全て国民党政権に接収され、その多くは公営化されたが、公営企業の常で国際競争力が弱かったからである。

 台湾の中小企業家たちは製品を輸出するために米国を初めとして世界各地を飛び回ったから、外国の情報を遮断することはできなくなった。台湾人は自分たちが如何に非人道的な恐怖政治の支配下に置かれているかを認識するようになり、在外台湾人が行っている台湾独立運動の思想も台湾内部に伝わるようになった。

 この頃になると、国民党軍を支配しているのは依然として蒋政権と共に台湾へ逃れてきたシナ人の将軍たちであったが、兵士の大多数は台湾人になっていた。もし、台湾人の憤懣が爆発して2・28事件のような台湾人の抵抗運動が起きたら、兵士たちの多くも彼らに同調する可能性が高いということである。恐怖政治は続いていたが、独裁者の蒋経國といえども、慎重にならざるを得なかった。

 国連から追放された後、中華民国は殆どの重要な国家との国交を失った末に、遂に同盟国の米国にまで断交されて、国民の蒋政権に対する不満が急激に高まった。そこへ米国で「台湾人民の人権を守り、これを促進することが合衆国の目標である」という条項を含む台湾関係法が制定されたので、大いに台湾人は勇気づけられたのである。

 1979年8月、台湾の民主化運動の推進を目標に掲げる月刊『美麗島』(Formosa)誌が創刊され、爆発的な反響を呼んだ。美麗島雑誌社に結集した民主化運動の活動家たちは、台湾全土で同志を集める活動を展開して組織が急拡大した。独裁政権が最も恐れるのは、権力によってコントロールできない強力な組織が生まれることである。12月10日の国際人権デーに美麗島雑誌社は、台湾南部の高雄市で人権集会を開き、3万人の大衆が集まった。蒋政権は、憲兵隊と警官隊によってこの集会を強制的に解散させた後、美麗島雑誌社の幹部など151人を逮捕した。組織が拡大して蒋政権の手に負えなくなる前に、美麗島雑誌社を弾圧したのである。この事件は、美麗島事件あるいは高雄事件と呼ばれている。

 1980年2月28日の白昼、高雄事件で投獄されていた林義雄弁護士の自宅で、林氏の母親(60歳)と双子の女児(6歳)が刺殺され、9歳の長女も瀕死の重傷を負わされた。高雄事件で投獄されていた主要人物の自宅は国民党特務機関の監視下に置かれていたから、誰もがこの凶行は特務の仕業であると思った。国民党軍が1947年に台湾人を大量虐殺した事件の発端となった2月28日にこの残虐な犯行が行われたのは、台湾人に2・28事件の恐怖を思い出させるためであったに違いない。この事件の犯人は、いまだに不明である。

 4月24日、台湾キリスト長老教会総幹事の高俊明牧師を初めとする長老教会関係者10人が逮捕された。台湾長老教会は、中華民国が国連から追放された直後の1971年12月に、台湾の民主化と国会の全面改選を要求する「国是声明」を発表した。この「国是声明」は、「全ての人民が自らの運命を決定する権利を有することは、神が定め賜い、国連憲章が確認したことである」と、台湾人民の自決権を認めることを内外に訴えている。それ以来、台湾長老教会は台湾の民主化を訴え続けてきた。キリスト教会弾圧が世界的な非難を招くことを恐れて、真っ向からの弾圧は避けてきた蒋政権であったが、今回は台湾長老教会の指導者の逮捕にまで踏み切ったのである。

 この一連の弾圧によって、蒋政権は台湾人が2・28事件の後のように従順になることを期待したのであろうが、今回は違った。多くの台湾人が、この大弾圧にあった人びとやその家族を慰め、激励し、援助を与えた。

 世界のキリスト教会や米国の政治家たちも、これらの政治弾圧を批判し、公正で公開された裁判を要求した。高雄事件で逮捕された人びとのうちの8人と長老教会弾圧事件で逮捕された10人は、いずれも軍事裁判にかけられた。軍事裁判が公開された例は殆どないが、国際的な批判が強かったので、蒋政権は高雄事件と長老教会弾圧事件の軍事裁判を公開せざるをえなかった。高雄事件では1人が無期懲役、他の7人は12年から14年の懲役判決を受けた。長老教会弾圧事件では、高俊明牧師ら2人が7年、4人が2年から5年の懲役、残りの4人も執行猶予つきながら有罪判決を受けた。これらの事件の被害者とその弁護を担当した弁護士たちは、その後の台湾の民主化に大きな役割を果たした。例えば、陳水扁総統は高雄事件の弁護士であり、呂秀蓮副総統(女性)は高雄事件で懲役12年の判決を受けている。

 蒋政権の思惑とは裏腹に、この一連の政治弾圧を契機として、台湾の民主化運動は飛躍的に高まって行った。そのために、蒋政権による大規模な政治弾圧はこれが最後になった。しかし、小規模な政治弾圧はその後も絶え間なく続いた。

 米国のカーネギー・メロン大学統計学科の助教授だった陳文成博士は、休暇で台湾に帰国中だった1981年7月2日、台湾で最大の特務機関であった台湾警備総司令部に連行され、翌朝に惨殺死体となって台湾大学の校庭で発見された。陳文成博士は米国で台湾独立運動を行っていると誤解されて、特務たちに拷問を受けている間に死んだらしい。この事件の犯人も、いまだに不明である。

 1984年10月15日、中国系米国人の江南(52歳)がカリフォルニアの自宅で暗殺された。江南はジャーナリストで、『蒋経國伝』を出版したばかりであった。犯人の仲間が米国で逮捕されたために、それが台湾のシナ人暴力団の犯行であることがわかった。この暴力団のボスは、蒋政権の特務機関の一つである国防部情報局長に江南暗殺を命じられたことを録音して、そのテープを米国にいる手下に預けておいた。証拠湮滅のために自分が台湾で特務機関に暗殺されることを恐れて、このテープを残したのであろう。このテープが米国の警察に押収されたために事件の概要が判明し、米下院は犯人の引き渡し要求を決議した。蒋政権はこの要求に応じなかったが、情報局長や暴力団のボスなどを逮捕した。この暴力団員の話によると、江南が『蒋経國伝』で経國を批判していることを怒った彼の息子の蒋孝武が、情報局長に江南暗殺を命じたのだと言う。

 民主化運動を妨害するための政治的な裁判などは日常茶飯事であったが、台湾の民主化運動は高まる一方であった。陳水扁総統も台北市会議員だった1986年6月に、彼が社長を務めていた政治雑誌の記事が名誉毀損に当たるとして発行人、編集長と共に8カ月の懲役で入獄している。この時は軍事法廷でなく普通裁判だったので、判決から入獄まで10日間ほどあった。その間、台湾の各地で連日3人の激励会が開かれて、毎回数千人の大衆が集まった。入獄当日、3人は「光栄入獄」のたすきをかけ、彼らを見送る群衆は「われわれも一緒に牢屋に入ろう」と叫びながら監獄まで付いて行った。政治犯は英雄になり、大衆は政治弾圧を恐れなくなったのである。人びとが恐れるから恐怖政治がまかり通るのであって、こうなるともはや恐怖政治は通用しない。この頃、台湾では密かに民主進歩党の結成準備が進められていた。

 国民党が最も恐れていたのは、国民党の独裁に挑戦する政党が現れることであった。戒厳令によって新たな政党の結成は禁止されていたから、民進党の結成は違法行為として弾圧される可能性が大きかった。米国で活動していた独立運動者たちは、アメリカの政治家に援助を求めた。1986年5月20日、上下両院の有力議員たちが、台湾民主化委員会(Committee for Democracy on Taiwan)を結成して、「人権の保障と民主化の促進は、米国の対台湾政策の主要目標であり、そのために本委員会は、台湾当局に戒厳令の解除と政党結成の自由化を呼びかける」との声明を発表した。

 1986年9月28日、台北市で135人の発起人が集まって、民主進歩党の成立を宣言した。蒋政権の法務大臣は、違法行為としてこれを取り締まると語った。しかし、発起人には全台湾の有力な民主化運動の活動家たちが名を連ねていた。もし、これを取り締まれば、全台湾で大騒ぎが起こることは間違いなかった。10月7日に蒋経國は、「如何なる新党も憲法を遵守しなければならない」と語り、民進党の結成を黙認する態度を示した。たび重なる政治弾圧を乗り越えて、遂に民主的な政党が台湾に誕生し、国民党の一党独裁は打破されたのである。

14、台湾の民主化

 1986年12月、立法委員(国会議員)の選挙が行われた。と言っても、322人もいる立法委員のうち、選挙で選ばれたのは73人にすぎない。立法委員の圧倒的多数は国民党の万年議員が占めていたから、台湾でも国会議員の選挙をやっているというポーズを示すだけの選挙にすぎなかった。しかし、この選挙で結成されたばかりの民進党の党員が12人当選したことは、台湾の民主化に一つの突破口を開くことになった。戒厳令を無視して結成された民進党が国会に議席を持つことになったのだから、戒厳令を解除せざるを得なくなったのである。

 1987年7月15日、38年間続いてきた戒厳令が遂に解除された。翌年1月13日、蒋経國(77歳)が突然病死し、副総統だった台湾人の李登輝が総統に昇格した。台湾人を副総統にしたのは、台湾人に対する宥和策であり、副総統は飾り物にすぎなかった。蒋経國が李登輝を副総統に選んだのは、李は農業経済学者で有能な実務家ではあるが、政治的野心は全くない人物と見られていたからだと言われている。

 国民党、軍隊、特務機関が蒋政権の主要な権力基盤であったが、李登輝は3機関のいずれとも無関係だったから、名ばかりの無力な総統であった。しかし、蒋介石と蒋経國のように、一人で全ての権力機関を支配している独裁者はいなかった。国民党の実力者たちが権力争いをしながら共同で政権を運営し、李登輝はロボット総統と呼ばれた。とは言え、台湾人は台湾人が総統になったことを喜び、李登輝総統を熱烈に支持した。

 戒厳令が解除され、独裁者が存在しなくなったことで、民主化運動は大衆の間にも広がって行った。そのような民主化運動のリーダーの中に、鄭南榕という特筆すべき人物がいた。『自由時代』という雑誌の社長兼編集長だった鄭南榕は、公開の場で初めて台湾独立を主張し、日本で台湾独立運動を行っていた許世楷博士が執筆した台湾共和国憲法草案を、1988年12月に発行された『自由時代』誌に掲載した。台湾独立を主張すること自体が叛乱罪に当たると刑法で定められていたので、台湾の高等検察庁は彼を叛乱罪容疑で召喚した。しかし、鄭南榕は、言論の自由を主張して編集室に立て籠もり、「国民党は私を逮捕できない。逮捕できるのは私の屍だけだ」と宣言した。1989年4月7日、鄭南榕(41歳)は警官隊包囲の中で覚悟の焼身自殺を遂げた。鄭南榕が自由を勝ち取るためには命をも犠牲にすることを身をもって示したために、台湾の民主化運動は神の啓示を受けたかのような力を得て急速に発展し、世論が力を持つようになったのである。

 蒋経國総統の残りの任期を継いだ李登輝総統の任期は、1990年5月までであった。次期総統に誰を選ぶかで国民党内は揉めたが、李登輝を支持する圧倒的な世論を無視できず、国民党は彼を次の総統に選んだ。国民の圧倒的支持を背景に、李登輝は名実共に総統となり、台湾の民主化を主導することになったのである。

 1992年5月、刑法改正によって、台湾独立を主張する言論の自由が認められ、外国で活動していた台湾独立運動のリーダーたちの多くが帰国した。世論に押されて万年議員は廃止され、12月には初めて立法院の総選挙が行われた。国民に選出された本物の国会が成立したことによって、台湾は実質的な民主国家になったのである。

 それまで6年だった総統の任期は4年に改正され、1996年に台湾で初めて国民の直接選挙による総統の直接選挙が行われ、李登輝が圧勝した。2000年の総統選挙では、李登輝が引退して国民党が分裂したために、民進党の陳水扁が39%の得票率で当選した。選挙による平和的な政権党交代が、実現したのである。

15、毛沢東の建国精神と台湾

「政権は銃口から生れる」ことを信条とする毛沢東は、中国国民党との内戦に勝利を収めて中華人民共和国を創建した後も、しばしば政治目的のために武力を行使した。建国からわずか1年で国家の基盤も固まっていなかった1950年10月、スターリンの要請を受け入れた毛沢東は、国家の存亡を賭けて、朝鮮戦争に介入して米軍と戦った。当時の毛沢東は、ソ連共産党を中国共産党の兄貴分と仰ぎ、「ソ連と中国は一枚岩である」と誇っていた。朝鮮戦争への参戦でソ連との絆をますます強化することによって、毛沢東はソ連と共に中国を世界の覇権国家とすることを夢見ていたのであろう。

 1957年、ソ連は世界で初めて大陸間弾道弾(ICBM)の実験と人工衛星の打ち上げに成功した。フルシチョフ・ソ連共産党書記長は、毛沢東に原爆の開発を支援すると約束した。その直後に毛沢東は、モスクワで「東風は西風を圧す」「アメリカ帝国主義は張り子の虎だ」と演説して、中国はソ連と一体になって自由主義陣営を圧倒する姿勢を示した。しかし、フルシチョフはそのような毛沢東に危険性を感じたのであろう。間もなくフルシチョフは、毛沢東に対する原爆開発援助の約束を反古にしてしまった。毛沢東が自力での核兵器開発を決意したのは、この頃のことであった。核兵器の開発には、巨額の資金を必要とする。

1958年、中国経済を短期間に自力で何倍にも発展させることを目的として、毛沢東は「大躍進」政策を打ち出した。このとき毛沢東が、「台湾解放」を掲げて、国民党軍が駐屯している中国沿岸の金門・馬祖島への砲撃を命じたのは、全国民を一致団結させて「大躍進」に駆り立てるためであったと思われる。経済原理を無視した「大躍進」政策は惨憺たる失敗に終わったが、毛沢東は核兵器の開発を諦めなかった。

 これより前の1954年にも、毛沢東は「台湾解放」を唱えて金門島を砲撃させたことがある。この年の5月、北ベトナムのディエンビエンフー(Dien Bien Phu)のフランス軍基地が北ベトナム軍に攻略されてフランス軍が降伏したために、米、英、仏などは共産主義勢力が東南アジアに拡張することを防ぐことを目的とする集団防衛条約機構の結成準備を急いでいた。この集団安全保障機構に台湾を加えさせないために、毛沢東は金門島を砲撃させたのである。この砲撃に驚いたタイやフィリピンなどの反対で、台湾はこの東南アジア条約機構(SEATO)に参加できなかった。武力による威嚇によって、毛沢東は政治目的を達成したのである。この他にも毛沢東が行った戦争には、1962年のインドとの国境での戦い、1969年のソ連との国境での戦いなどがあるが、いずれにも政治目的のための武力行使であった。毛沢東以後も1979年に、小平が「ベトナムを懲罰する」と称して20万人の中国軍をベトナムに侵攻させている。政治目的のために武力を行使する毛沢東の建国精神は、中華人民共和国の伝統になってしまったと思われる。

 もともと、武力でシナを統一した強国が出現すると、その国は武力で周囲の国々を支配下に置き、東アジアに覇を唱えてきた歴史的伝統がある。しかし、シナに誕生した覇権国家は、いずれも大陸系の民族が築いた国家であり、13世紀に日本征服を2回試みたモンゴル人の大元帝国を例外として、海洋には殆ど関心を示さなかった。だが、現代においては、海洋を制しない限り、中国は東アジアの覇権国家になることができない。中国の指導者たちは、そのことを認識しており、1992年に制定した領海法で、東シナ海の大部分とフィリピン、インドネシア、ブルネイ、マレーシア、タイ、カンボジア、ベトナム、台湾、中国に囲まれた南シナ海を一方的に中華人民共和国の領海と定めた。

 もし、中国が台湾を併呑したら、中国は実質的にも東シナ海と南シナ海を支配下に置いて、南シナ海周辺の東南アジア諸国を実質的な従属国にすることができる。そうなれば、日本と東南アジア諸国との緊密な関係も維持できなくなるであろう。しかも、台湾の沿海を通って南シナ海に入り、マラッカ海峡を抜けてインド洋に出るシーレーンは、中東の産油諸国、さらにはヨーロッパに至る日本の生命線である。台湾を支配下に置くことができれば、中国は日本の生命線を押さえることになるのだ。

 台湾の人口は中国の60分の1にすぎないが、台湾の国内総生産(GDP)は中国の4分の1を超え、かなりの技術力もある。日本の人口は中国の10分の1にすぎないが、日本のGDPは中国の4倍もあり、技術力と資本力では世界のトップクラスである。もし、中国が台湾を併合して日本を従属国化することができれば、中国はかつてのソビエト帝国以上の大帝国となり、世界のバランス・オブ・パワーは劇的に変化する。日本にとっても台湾にとっても、これ以上の悲劇はないが、太平洋を挟んで大中華帝国と対峙することになるアメリカにとっても、これ以上の悪夢が考えられようか。

 これは、単なる空想ではない。今日の世界に、人口だけ多くて貧しく資源もない中国を侵略する国などあるはずがないのに、中国が軍事力の強化にあれだけ力を入れている現実を見れば、それが大きな政治目的のためであることは明白であろう。中国が国内に抱えている問題は、非常に深刻である。中国の経済発展が宣伝されているが、外国の資本と技術に依存した経済発展であり、自力によるものではない。資本はより有利な投資先があればすぐに移動するから、中国の将来の経済発展には何の保証もないのだ。しかも、経済が発展したと言っても、中国の一人当たりのGDPは1000米ドルを少し超えたにすぎず、貧富の差が甚だしいために、国民の大多数を占める貧民の不満は募るばかりである。それにもかかわらず、中国は貧民の救済に資金を使わず、軍備増強を優先している。台湾さえ取れば、これらの国内問題も一挙に解決できると考えているからこそ、中国は大きな犠牲を払って軍事力の増強を続けているのであろう。

 では、中国が台湾を併合するにはどのような条件が必要なのか。

 中国としては、米国との戦争は絶対に避けなければならない。アメリカとの戦争になれば、米国に対してある程度の損害を与えることはできるであろうが、短期間に中国が壊滅的な損害を受けることは明らかである。台湾との戦争が長期化することも、中国としては絶対に避けなければならない。台湾海峡で戦争が続いている間は、外国資本が中国に投入されることはないし、中国の対外貿易も大きな制約を受けることになる。さらには、中国に対して国際的な経済制裁が加えられる可能性も大きい。そんなことになれば、外国資本と貿易に依存して発展してきた中国経済はたちまち崩壊してしまい、中国共産党は政権を守ることもできなくなるからである。

 中国がロサンゼルスやサンフランシスコを攻撃できる核ミサイルを持つようになれば、アメリカは台湾問題に軍事介入できない、と言った中国軍幹部もいる。しかし、それだけでは不十分であろう。

 アメリカに向けて一発でもミサイルを発射したら、ただちに全面報復を行うという態度に米国が出れば、この脅しは効かないからである。米国の軍事介入を防ぐためには、米機動艦隊が台湾近海に近づけないようにする以外になかろう。軍事専門家の話によると、米機動艦隊が最も恐れているのは敵国のミサイル潜水艦であり、現在でも米機動艦隊は国籍不明のミサイル潜水艦からは防衛可能な距離を保って行動しているそうだ。近年、中国の潜水艦が太平洋に出没するようになったのは、このような戦略を想定した上でのことではなかろうか。

 中国が多数のミサイル潜水艦を太平洋に配置するようになれば、米機動艦隊を牽制して、米国の太平洋側の都市ばかりか、ニューヨークやワシントンを攻撃すると脅すこともできる。そのような事態に至ったら、日本の自衛隊が米軍と共に行動したり、日本の軍事基地を米軍に使わせたら、日本を攻撃する、と中国が威嚇するのは当然であろう。もちろん、一方に軍事戦略があれば、他方にはそれに対抗する戦略がある。米国の軍事力は中国よりはるかに強力だから、台湾が中国と戦い続ければ、米国は台湾を救援する戦略を見出すと考えねばならない。

台湾は陸・海・空、30万人の兵力を擁し、防衛に必要な兵器を米国に供与されているから、戦う意志さえあれば、自力でもかなりの期間、台湾は防衛できる。軍事力で台湾を征服するためには、中国は数十万の兵力を台湾に上陸させなければならないが、中国軍にはそのような渡海上陸作戦を行う能力はないし、将来もそれだけの軍事力を持つことは不可能であろう。しかし、現在の軍事力増強を続けていけば、そう遠くない将来に、中国は台湾を潜水艦などで包囲して、ミサイルと海・空軍で台湾を4方から攻撃する能力を持つようになる。 中国がそれだけの軍事力を持つようになったからといって、中国が台湾をすぐ攻撃するという訳ではない。軍事力で台湾に大きな損害を与えることはできるが、台湾が抵抗を続ければ、米国は台湾の救援策を講じるであろうし、国際的な制裁などによって中国経済の方が先に崩壊してしまう。中国の目的は、軍事的威嚇によって、台湾人の抵抗心を挫き、台湾を屈伏させることであろう。中国の言う「1国2制」を受け入れさせることである。台湾が中国の一部であることを認めて「1国2制」を受け入れてしまえば、米国も国際社会も台湾問題に関与できなくなる。香港の場合と同じように、中国軍を台湾に進駐させれば、中国が台湾を占領したのに等しい。台湾に「1国2制」を受け入れさせるために、中国は香港にある程度の自由を認めているが、台湾を占領してしまったら、そのような配慮は不必要になるのである。。

16、対極に位置する米国とシナ帝国の建国精神

 アメリカ合衆国の歴史を貫いているのは、その建国精神である。17世紀、イギリスの宗教弾圧から逃れた何千人ものピューリタンが、自分たちの信仰に基づく国家の建設を目標としてアメリカに渡った。1776年、イギリスの植民地だったアメリカ13州 の大陸会議は、独立宣言を採択して英国と独立戦争を戦った。当時の西ヨーロッパは古代ギリシア・ローマの思想を模範とする啓蒙の時代であり、アメリカの建国の父たちに共通する思想は、キリスト教への信仰と古代ギリシア・ローマの自由主義および法治主義であった。

第1次世界大戦で米国は、自由主義国家の英国とフランスを援けてドイツ帝国と戦った。第2次世界大戦でも同じように米国は、自由主義諸国を救援するために、日・独・伊の3国同盟と戦った。第2次世界大戦後に始まった冷戦では、米国は共産党独裁のソビエト連邦と対決して、ソビエト帝国を崩壊に追い込んだ。自由を守るために戦っている国々と共に戦い、自由を勝ち取るために闘っている人びとを援けることは、建国精神に基づく米国の使命とされている。

 1961年1月20日、ジョン・F・ケネディーは大統領就任演説で、「われわれは、われわれがかの最初の革命の継承者であることを決して忘れるものではない」と断った上で、こう述べている。「われわれに好意を持つ国であろうと、悪意を持つ国であろうと、全ての国に次のことを知らせよう。われわれは、世界における自由の確保とその勝利のためには、如何なる代償も支払い、如何なる負担をも引き受け、如何なる苦難にも立ち向かい、如何なる友人をも援け、如何なる敵とも戦う。」

 このケネディー演説にも、今回のブッシュ大統領の「自由演説」にも、自由のためには断固として戦う米国の建国精神が満ち溢れている。自由を守り、自由を求めて闘う人びとを援けることは、天賦の人権を確立することであると同時に、世界に自由を広めることによって世界平和を確立できる、というのがアメリカの建国精神なのだ。

 このアメリカの建国精神の対極に位置するのが、シナの中華思想である。中華思想の起源は、紀元前3世紀の秦の始皇帝によるシナ大陸全土の統一にまで遡る。始皇帝は専制君主を戴く中央集権体制を確立したが、これがシナ人の言う「天下統一」である。このとき以来、シナに誕生した全ての王朝は、天下統一を目指すことになった。始皇帝の天下統一の特長は、領土の統一だけでなく、支配階級である知識人の頭の中までを統一したことである。始皇帝は、「焚書坑儒」を行って、自分の思想に反する書物は全て焼却させ、自分と異なる思想を持つ学者たちを生き埋めにして殺した。思想の自由を認めれば、支配階級の間に意見の対立を生じ、天下の分裂に至る可能性があるからだ。

 始皇帝以来、シナに誕生した統一国家は、シナの周囲に万里の長城を築いて天下を防衛しようとした。しかし、万里の長城を乗り越えて、シナに侵入する異民族が絶えなかった。そのような異民族が目指したのも、天下統一であった。彼らは武力によってシナを征服することはできたが、学識がなかったので、思想の統一にはシナ人の知恵を借りざるをえなかった。そこでシナ人は、武力によって征服されても、文化的には逆に支配者を征服したのだと考えた。その結果、シナ人は中華思想こそが世界一秀れた文化であると信じるようになった。こうして、領土だけでなく、支配階級の思想までを統一して、専制君主が全国民を支配する「天下統一」主義は、シナ大陸に誕生した全ての国の建国精神になったのである。

 ロシアのツアーリズム(Czarism)は、シナの「天下統一」主義に似ているが、この点が異なる。16世紀のロシアに生まれたツアーリズムは、武力によって領土を拡大すると同時に、きびしく思想統一を行った。ロシア帝国の知識人たちの殆どは貴族階級であったが、彼らは公の場では皇帝(Czar)の言葉を繰り返すだけで、皇帝の意志に反するような発言は一切しなかった。しかし、子供の頃からフランス語で教育され、フランス語を通じて西欧文化を学んでいたロシアの貴族たちは、ロシアが如何に強大な帝国になっても、文化的には「遅れたロシア」という劣等感から逃れることができなかった。

 ロシア帝国はナポレオン戦争に勝ってパリを占領したが、ロシア軍の貴族将校たちは、逆にフランスの自由主義思想に影響されて、帰国後、ツアーリズムに対して叛乱を起こした。デカブリスト(Dekabrist)の叛乱である。だから、「ロシア革命は貴族たちが始めた」と言われるのであるが、最終的な革命の勝利者となったのは共産党であった。ソ連共産党が建設したソビエト帝国は、ツアーリズムの焼き直しにすぎなかった。第2次世界大戦に勝利を収めたソビエト連邦は、東欧諸国をも支配して大帝国を築き、米国と並ぶ世界の超大国になったが、ロシアの知識人たちは「遅れたロシア」の劣等感から逃れることができなかった。そこでソビエト連邦のゴルバチョフ(Gorbachjov)大統領は、ペレストロイカ(Perestroika)によって民主化を推進したが、その結果、ソビエト帝国は崩壊し、ソビエト連邦までが解体してしまった。それを見た中国の支配階級は、シナの「天下統一」主義が秀れていることを再確認して、思想統制を緩めてはならないと胆に銘じたのである。

17、存亡の危機に瀕した台湾

 中華人民共和国は、建国してから間もなく、チベットや東トルキスタンなどを征服して、シナ史上最大の版図を持つ大国となった。かつては万里の長城の内側を統一するだけで、「天下統一」は達成された。その国は、軍事的にも経済的にも周囲の国々を圧倒する大帝国となり、東アジア大陸で覇権を確立することができたからである。しかし、現代では西太平洋の国々を支配下に置かない限り、中国が東アジアで覇権を確立することはできず、「天下統一」は達成されない。中国の立場から見ると、米国を中心とする自由主義勢力によって海洋から包囲されているのが現状である。この現状を打破して「天下統一」を達成するために、中国は如何なる手段を用いても台湾を併合しなければならないと考えている。

 中国が台湾に対する野心を放棄しないのは、台湾の政治的地位が不安定なために、台湾を併合する可能性が残されているからだ。台湾とフィリピンを比較すれば、台湾の特殊性は明白であろう。台湾と同じく西太平洋の島国であるフィリピンは、台湾の隣国であり、経済的にも軍事的にも台湾よりはるかに弱体である。もし、中国がフィリピンを奪取できれば、台湾を併合した場合と同じように南シナ海を支配して、中国は東アジアで覇権を確立できる。しかし、中国はフィリピンを、「統一に応じなければ、武力を行使する」と威嚇することはできない。国連憲章が「全ての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、如何なる国の領土保全または政治的独立に対するものも、……慎まなければならない」と定めているように、他国に対する武力による威嚇と武力の行使は国際法で固く禁じられているからである。

 ところが、台湾に対して中国は、これまでも絶えず「統一に応じなければ、武力を行使する」と威嚇してきた。去る3月、中国は、「反国家分裂法」を制定して、非平和的な手段で台湾を統一する権限を、政府と中央軍事委員会に与えた。世界のどの国であろうと、このような不法行為を行ったら、国際社会できびしく糾弾され、国際制裁を科されるはずである。なぜ、台湾に対する場合だけは、中国の武力による威嚇が国際社会で黙認されているのであろうか。

 もし、台湾が他の国々と同じように主権国家として国際社会で認められていたら、このような台湾に対する中国の不法行為は決して許されないはずである。1971年に国連が、台湾を主権国家として認めずに国連から追放したことが、台湾をこのような不安定な地位に陥れたのだ。しかし、台湾は主権国家に必要な人民、領土とそれを統治している政府の3条件を失った訳ではない。しかも台湾は、人口と経済力では世界の国々の中で上位にあり、十分な領土を有し、自由で民主的な国家である。それにもかかわらず台湾が、主権国家であることを国際社会で認められない唯一の理由は、台湾がいまだに国連から追放されたときと同じように、中華民国と称していることであろう。

 中華人民共和国が世界に宣言している公式の立場は、「世界に中国は1つしか存在せず、それは中華人民共和国である。台湾は中華人民共和国の一部であり、分離独立は許さない」と言うものである。ところが現実には、中華人民共和国が台湾を支配したことは一度もなく、現実に支配していないのだから、台湾の「中国からの分離独立」ということはありえない。この点に対する中国の説明は、「台湾問題は中国の内戦が残した問題である。中華民国はすでに消滅して存在しないが、叛乱分子が台湾を占拠して中国政府に抵抗している。従って、台湾の統一は中国の国内問題である」というものだ。台湾問題は武力による威嚇や武力行使が禁じられている国際問題ではなく、国内問題であると言って、中国は台湾に対する武力による威嚇と武力行使を正当化しているのである。

 中国国民党が中国共産党との戦いに敗れて台湾に逃れてきたために、中国の内戦が台湾に持ち込まれる形になったが、台湾人が中国共産党と戦ったことはなく、台湾が中華民国の領土になったこともない。民主化によって台湾人民が台湾の主権者になった現在、台湾人が占領軍によって押しつけられた中華民国という虚構を廃棄して、自分たち自身の国家を持ちたいと願うのは当然であろう。それは、人民自決権に基づく台湾人民の当然の権利でもある。中国が最も恐れているのは、そのことなのだ。台湾国になってしまえば、台湾と中国の関係は、国家と国家の関係、すなわち国際関係になり、中国の言う「台湾統一」は侵略であることが明白になるからである。

 そこで中国は、台湾憲法を制定しようとしたり、あるいは国名を台湾に変えようとすると、武力で台湾人を威嚇してそれを阻止してきた。そして、中国は台湾に対して、「1つの中国の原則と台湾は中国の一部であることを認めよ」と要求する。この場合、中国は決して「台湾は中華人民共和国の一部であることを認めよ」とは言わない。そのような要求に対しては、台湾内部の統一派も応じられないからである。

 例えば、中国国民党主席の連戦や親民党主席の宋楚瑜など台湾の統一派は、「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」ことを認めている。彼らに「台湾は中華人民共和国の一部であることを認めるのか」と問えば、彼らは「われわれの言う中国は、中華民国のことである」と弁明する。中国にとっては、これで十分である。世界中の誰もが、中国とは中華人民共和国のことであると思っており、中華民国を意味するとは考えないからだ。台湾の内部だけとは言え、こんな不条理がまかり通るのは、台湾に中華民国憲法が存在して、中華民国の国名が存続しているからである。これまでも台湾人は、この問題を解決しようと努力してきた。

 1999年7月9日、李登輝総統はドイツのラジオ放送とのインタビューで「台湾と中国の関係は、国家と国家の関係、少なくとも特殊な国と国の関係である」と語った。この時の李総統は、まだ中華民国の国名を変更することまでは考えていなかった。中華民国が中華人民共和国とは別個の国家であることを明確にすることによって、中華民国の領土に中国大陸が含まれているとする虚構を打破しようとしたのである。しかし、中国は、それは「台湾独立」を目指すものだと怒り狂い、台湾侵攻を想定した大規模な上陸演習を繰り返して、今にも台湾を攻撃するような構えを見せた。驚いた米国政府が「これ以上中国を刺激するな」と強い圧力をかけたので、李総統は目的を果たすことができなかった。

 2003年9月28日、陳水扁総統は、「2006年に国民投票で新憲法を制定して、2008年に施行する」ことを目標とする公約を掲げた。2000年の総統選挙に立候補して共倒れになった連戦と宋楚瑜が、2004年3月の総統選挙では総統・副総統候補として組んだので、陳総統は多数の国民が熱望している台湾憲法の制定を公約に掲げたのである。この思い切った公約によって、陳総統の人気は急上昇した。連・宋らの統一派は「これは台湾独立の日程を示したものであり、中国の武力攻撃を招く危険な政策だ」と陳総統を激しく非難し、中国も「如何なる犠牲を払っても、台湾の独立は許さない」と恫喝した。

 同年12月9日、訪米した中国の温家宝首相と会ったブッシュ米大統領は、「現状を変える中国、台湾の如何なる一方的な決定にも反対する。現状を変えようとする台湾の指導者の最近の言動に反対する。」と語った。中国の威嚇には慣れている台湾人も、このブッシュ大統領の発言には大きなショックを受けた。万一、中国が攻撃してきても、米国は台湾を援けてくれないのではないか、と心配したのである。そのために、陳総統の人気は急落した。統一派に政権を奪われるのではないかと恐れた台湾人は、総統選挙直前の2004年2月28日、すなわち国民党軍が3万人の台湾人を虐殺した事件の記念日に、台湾の北端から南端までを人間の鎖でつなぐ陳水扁総統支持デモを行った。このデモには、台湾の人口の10%、220万人が参加した。この2・28事件の記念日に行われた人間の鎖デモが功を奏して、陳水扁総統は再選されたが、0.228%の差だったので、奇跡の勝利と呼ばれた。陳水扁総統の勝利は僅差であったが、4年前の総統選挙に比べると10.8%も得票率が増えて過半数を制したので、もう統一派に未来はないと思われた。同年12月の立法院選挙では、少数与党で苦しんできた民進党と台湾団結聯盟が過半数を制するというのが、圧倒的多数の予想であった。しかし、国民党と親民党の野党が、わずかながら立法院の過半数を制する予想外の結果に終わった。選挙直前に米国政府が、陳水扁政権に対して「如何なる現状変更にも反対する」と細かなことにまで圧力をかけたことが、与党の敗北につながったのであろう。米国は陳水扁政権を支持していないのではないか、という不安を台湾の人びとに抱かせたからである。

 与党の立法院選挙での敗北は、一挙に台湾の政治を混乱に陥れた。陳水扁政権はずっと少数与党だったために、野党が反対する法案は一本も議会を通せなかった。例えば、2001年に米国政府は潜水艦やパトリオット3型ミサイルなどの防衛兵器を台湾に売却する決定を行ったが、野党の反対でいまだにこれらの兵器購入に必要な予算案は宙に浮いたままである。台湾がこれらの兵器を入手することに中国が猛反対しているので、台湾の統一派はこの予算案を通すことを拒否しているのだ。

 台湾と緊密な利害関係を持つ米国も日本も、台湾の複雑な政治勢力をあまり理解していないようだ。

 中国から占領軍として台湾に渡ってきたシナ人が、半世紀も台湾を支配した。しかし、李登輝総統時代の民主化によって、彼らは既得権の多くを失ってしまった。この民主化は、国民党主席であった李総統の国民党に対する強力な指導力と民進党の協力によって推進されたのである。この民主化に反対するシナ人の有力者たちは、次々と国民党を離党した。その一人が宋楚瑜であり、彼が組織した親民党はシナ人の政党である。国民党主席の連戦は、「私は純粋の中国人であることを誇りにしている」と公言するほど、中国人意識の強い人物で、彼が李登輝の後を継いで国民党主席になって以来、多くの民主派が国民党から排除されて、統一派が国民党の支配権を掌握した。統一派の最大の目標は、政権の奪回である。しかし、台湾の人びとの台湾人意識が年々強まっているので、統一派は政権奪回のために中国の協力を必要としている。一方、中国も台湾を併合するためには、統一派の協力を必要としている。この利害関係の一致によって、中国と統一派は提携したのである。

 台湾に対しては中国以上に米国の影響力が大きいのであるが、北朝鮮問題などに関して中国の協力が必要であるという理由で、米国は中国の要求を受け入れて台湾の民主化を阻止している。この情況を巧みに利用しているのが、中国である。

 中国は、反国家分裂法を制定して、「統一を受け入れなければ、何時でも武力を行使する」と台湾人民を脅迫する一方、統一派の連戦や宋楚瑜を国賓待遇で中国に迎えて、「一つの中国の原則と台湾が中国の一部であることを認めれば、台湾に対して武力を行使しない」という餌で、台湾人民を懐柔しようとしている。統一派の主張に重みを与えているのは、米国が台湾憲法の制定や国名変更など、台湾の現状変更に反対している事実である。このような圧力に堪えきれず、陳水扁総統は公約を撤回して、「新憲法は制定しない。中華民国憲法を尊重して国名も変更しない。現状を維持する」と約束してしまった。陳総統は、台湾の自由とデモクラシーを法律で裏付けることを放棄したのである。これまで陳総統を支持してきた民主化推進派は、陳総統が台湾の生存にかかわる基本的な問題で統一派に譲歩したことを批判し、世論を結集することによって台湾憲法を制定するために大衆運動を続けている。しかし、大衆の間に「アメリカが反対しているのでは、仕方がないではないか」という諦めに似た気持ちが広がりつつある。

 台湾の民主化勢力は分裂して、大混乱に陥っている、このような状態が続けば、2008年の総統選挙で統一派が勝つ可能性が高い。もし、統一派が政権を取って、台湾政府が「中国は1つであり、台湾は中国の一部である。中華民国も中華人民共和国も同じ中国である。」と認めてしまえば、中国による台湾併合への路線が引かれることになるのだ。台湾は存亡の危機に瀕しているのである。

 これは、台湾の危機であるだけではなく、アジア太平洋の平和を脅かさす世界的な危機である。この問題を解決できるのは、米国以外にない。それも決して難しいことではないのだ。ブッシュ大統領が、「米国は、台湾の人びとが自由を確保して民主化を推進することを支持する。台湾憲法を制定することは、人民自決権に基づく台湾人民の当然の権利である」と声明するだけで十分なのである。そうすれば、米国の支持に勇気づけられた台湾人は、自ら自分たちの将来を切り開くであろう。


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