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阿貴(アークエイ)。かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂。

Author:阿貴(アークエイ)。かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂。
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青森李登輝友の会ブログ

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李 登輝 台湾前総統 プロフィール

李 登輝(りとうき, 拼音:Lǐ Dēnghuī、1923年1月15日 - )は中華民国(台湾)の政治家・農業経済学者。台湾前総統(1988年-2000年)。




目次 [非表示]
1 プロフィール
2 略歴
3 来日をめぐる騒動
4 主な著書
5 関連人物
6 関連項目
7 外部リンク



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プロフィール
前総統蒋経国の改革路線を継承し、台湾の本土化を推し進めた。このため総統就任初期は台湾で絶大な人気を集めた。憲法を改正し、万年地位を保証されていた外省人国会議員の特権を剥奪し、台湾史上初の総統直接選挙を実現させた。総統の任期はアメリカと同様に「一期四年、連続二期」の制限を付け、独裁政権の発生を封じた。

日本による台湾統治時代には岩里政男という日本名をもち、京都帝国大学で教育を受けた。当時の日本的思想をもち、「私は22歳まで日本人だった」と公言して親日路線を敷いていた。大東亜戦争の終戦時は大日本帝国陸軍少尉として名古屋の高射砲部隊にいた。当然ながら日本語も自由に話すことができる。

台湾での李登輝政権の評価の中には蒋経国政権時代まではほとんどなかった汚職が激増し、「黒金(金権)政治」とも呼ばれる状態を招いた事や、彼自身の汚職疑惑などの負の側面を指摘する声も聞かれる。

[編集]
略歴
1923年(大正12年、民国12年)1月15日、当時の台北県三芝郷埔坪村に生まれた(日本名:岩里 政男)。 父親は警察官。
1929年 - 淡水公学校入学。
1935年 - 淡水公学校尋常科卒業。
1936年 - 淡水中学入学。
1940年 - 台北高等学校入学。
1943年 - 京都帝国大学農学部農林経済学科に入学。
1946年 - 戦後は台湾に帰って国立台湾大学に編入し学業を継続した。
1947年 - 共産分子として検挙される。
1947年 - 敬虔なクリスチャンの曽文恵と結婚。夫人とともに台北の教会めぐり。後に一男をもうけるが、癌により早世される。
1947年 - 国民党による台湾人に対する弾圧二二八事件が発生するが、難を逃れる。
1949年 - 農業経済学学士の学位を取得し、母校にとどまって助教を担任した。
1950年 - キリストの救いを受け新生を体験し、バプテスマを受け敬虔なクリスチャンになる。
1951年 - 中米基金の奨学金を受け米国アイオワ州立大学で農業経済学を研究する。        
1953年 - アイオワ州立大学より農業経済学の修士号を取得。帰国後、国立台湾大学で教鞭をとるかたわら、台湾省農林庁および台湾省合作金庫の研究員を兼務した。
1960年 - 要注意人物として情報当局に逮捕。
1968年 - 米国コーネル大学より農業経済学の博士号を取得。 帰国。
1970年 - 国連よりバンコクでの公演依頼をうけるが、要注意人物のため出国できず。
1971年 - 蒋経国に認められ国民党入党。
1972年 - 行政院政務委員(閣僚級)に就任。
1978年 - 台北市長に就任(当初行政院政務委員兼務)。水不足問題の解決等に尽力する。
1981年 - 台湾省政府主席に就任。
1984年 - 副総統に就任。
1988年 - 1月13日、蒋経国総統の逝去により総統の任を継承。
1995年 - 総統就任後初渡米し、母校コーネル大学で講演。
1996年 - 台湾史上初の総統直接選挙を実施し、圧勝。
1998年 - ドイツのテレビ局によるインタビューに答え、「中国と台湾の関係は国と国の特殊な関係」であると定義し、台湾が大陸中国の支配下にないことを明確にする。
1999年 - 「台湾の主張」で山本七平賞。
2000年 - 自身の後継者として推薦していた国民党の連戦候補の惨敗の責任を取り、国民党主席を辞任。 同時に連戦との確執が発生し、国民党を離党。
2001年 - 4月、心臓病治療のため来日。岡山県倉敷市などを訪れた。12月、日本李登輝友の会が設立され、東京のホテルオークラで設立総会。李もインターネットを通じて講演を行った。
2002年 - 中間選挙で陳水扁総統を側面支援することを目的として、台湾団結連盟を立ち上げ、精神的指導者となる。選挙運動中の演説で「もはや中華民国は存在しない」と断じ、台湾独立への意思を鮮明にする。10月、慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」の招きで来日する意向が伝えられた。同サークルが慶應大の学園祭「三田祭」において開催する講演会で講演する予定だった。当初、来日は問題なく実現するかにみられたが11月、日本政府は李登輝が求めたビザの発給を拒否。訪日と講演は幻に終わった。背景には中国政府からの圧力や、中国政府の意を汲んだ日本政府や大学当局の画策があったとされる[1]。講演予定だった内容は、11月19日付け産経新聞朝刊で「日本人の精神」として全文が掲載され、反響を呼んだ。
2003年 - 12月12日、中央大学の学生主催のインターネット講演会で日本人向けの講演を行った。
2004年 - 12月27日、観光旅行のため曽文恵夫人や長男(故人)の嫁、孫娘の李坤儀らを伴い3年8ヶ月ぶりに訪日。李の来日を巡っては、中華人民共和国がビザ発給の撤回を要求するなど激しく反発した。
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