background movie
HOME ブログ翻訳
powered by 3ET
powered by 電脳PC生活
プロフィール

阿貴(アークエイ)。かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂。

Author:阿貴(アークエイ)。かくすればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂。
図4
台湾旗


よろしければクリック!


おすすめ書籍
李登輝 本
お申し込みはhttp://www.ritouki.jp/cgi-bin/enquete/form0028.reg


おすすめ書籍
李登輝先生
HPからお申込み送料無料でお届け
http://www.ritouki.jp/


おすすめ書籍
りん先生
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4890632018.html


おすすめ書籍
永山
http://books.livedoor.com/item_detail/niitaka161208/524b&isbn=9784944235384.html
定価1680円(税込み)。版元の「まどか出版」へ「著者のブログで見た」と書いたメールで送ると、「送料無料+後払い」でお買い求めできます。(住所、名前、電話、書名、冊数もお願いします)(まどか出版)
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/この本の著者のブログ



メルマガ「台湾の声」の購読を!
台湾・日台関係情報のほか、日本における台湾独立建国運動や台湾防衛運動の情報を毎日配信。
http://www.emaga.com/info/3407.html

最近の記事 最近のコメント 最近のトラックバック 月別アーカイブ カテゴリー
ブロとも申請フォーム HS月別アーカイブ

青森李登輝友の会ブログ

日本李登輝友の会の青森県支部です。略して「青森李登輝友の会」です。 皆様宜しくお願い申しあげます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

こんなにあった日台交流秘話 柚原正敬 第38回日台東京フォーラムは、99年4月28日

第38回 日台東京フォーラム

こんなにあった日台交流秘話

  第38回日台東京フォーラムは、99年4月28日、伊達物産アジア研究所会議室で開催されました。台湾にこだわって捜し歩いた交流秘話。柚原正敬さんの報告を聞いて、みんなで討論。
参加者=日本11名、計11名

発題=柚原正敬・展転社編集長
 『日台交流秘話』は、平成8年(1996年)に展転社から出版され、これまでほとんど紹介されていなかった98編の交流物語が紹介されています。私が台湾に興味を持ったのは、どうしてこんなに台湾は親日的なのだろうかということだった。台湾は世界一の親日国だと思う。それで、平成7年に台湾研究会を立ち上げた。執筆者も研究会のメンバーがほとんどです。昭和30年代生まれの若い人が中心でした。
日本の中・高の教科書では、台湾のことはほとんど出ていない。中国との関係だけ。そこで、名越二荒之助先生に聞いたところ、面白い話がたくさんあること、日本語を話す人がいっぱいいることを知った。日本の統治下にあったからですが、それまではそれも理解していなかった。私自身もまだ勉強中です。

【日台協力して戦死者を慰霊】
  台湾が日本の領土になったのは明治28年(1895年)4月ですが、日清戦争の結果、下関条約で清国から割譲された。併合ではなかった。伊藤博文と李鴻章が交渉した。それが、昭和20年8月25日まで続いた。いわゆる大東亜戦争の結果、台湾の領土を放棄した。この本では、「第二次世界大戦」とか、「太平洋戦争」ということばは使っていない。それは、台湾の人が「大東亜戦争」というからなんです。余談ですが、日本は最初から大東亜戦争という呼称で戦ったのではなく、開戦2日後に、閣議と大本営で協議して決まった。戦争の名前とはそんなものなのかなと思った(笑)。この戦争では、台湾と朝鮮の人も一緒になって、アメリカとイギリスを相手に戦ったわけです。後にオランダなどが入り連合国となります。

  日本の戦死者は200万人くらいで、靖国神社にお祭りされている。ここには、台湾、朝鮮の方もお祭りされている。台湾が約2万8千人、朝鮮の方が約5万人です。当時、台湾では軍人が8万人、軍属が12万6千人がこの戦争に参加し、軍人で2,146人、軍属で28,158人、計30,304人が亡くなられています。しかし、昭和20年(1945年)8月15日以降も、昭和26年の今日、即ち4月28日まで占領されましたので、戦争は続いていたわけです。この間に亡くなられた方については判明した分は入れてありますが、正確には把握できなかった。

  そして、台湾でも台中の宝覚禅寺の中に英魂観音亭があり、「霊安故郷」碑は李登輝さんが碑文を書いている(写真が回覧される)。ここが、大東亜戦争で亡くなられた3万3百人の方々をお祭りしている所です。靖国神社もここも遺骨は祭っていない。実は、この碑が今日のテーマである交流秘話に関係があるんです。この碑は、日本と台湾の軍人・軍属の方々が、1990年に協同で建てたものです。台湾に行かれたら是非お参りして下さい。また、台北の少し南の烏来のタイヤル文化村にも、「霊安故郷」碑がある。昔は高砂族と呼ばれた原住民のタイヤル族の村で、周麗梅(日本名愛子さん)が夫の遺志を受け継いで1992年に建てたもので、日本からも寄金が寄せられました。

  もう一つあります。台北の中和禅寺にも慰霊碑がある。これは、1983年でもっと古く、台湾の戦没者をなぐさめるために、台湾の人々の力を借りて、日本人が作った慰霊塔です。青森県の松緑神道大和山という宗教団体が作ったものです。

  3つのものはすべて日本と台湾で合同で作っています。戦争で亡くなった方々をなぐさめようということから日台交流が出発しています。国交断絶は昭和 47年(1972年)ですが、それ以降にこういう動きが出ている。昨年の8月に私もお祭りに参加したのですが、面白いことに神道式でやっている。昭和21 年5月から23年11月まで、極東軍事裁判が行われた。そこでA級戦犯とされて死刑になったのが東條英樹元首相以下7名ですが、靖国神社ではこの方々もお祭りしている。死刑になったのが12月23日。今上陛下の誕生日に合わせて処刑した。永久に日本人が忘れないようにということでしょうが、やるせない日です。今は、「昭和殉難者」としてお祭りしている。

【「台湾の靖国神社」にある日本人墓地】
  写真で神道の装束をつけているのは、大正9年(1920年)台南生まれの鄭春河さんで、昭和14年に神主の資格を取り、18年に陸軍志願兵の制度ができると、いの一番に応募して第一期生になった。なぜこのお祭りをするかというと、台湾人で、B級、C級戦犯として処刑された人が26名いて、この方々が台湾でまだお祭りされていなかったということが分かって、台湾の方々に頼まれて、自分が神職の資格を持っているからと、英魂観音亭にお祭りしようということになった。

  面白いのは、日本の神道のお祭りでは、お米、お酒、野菜などをあげるんですが、お酒はすごく強いお酒で、あとバナナ、たばこ(笑)等、台湾独特のものがあった。独自のやり方だなあと思って感心した。また、日本では榊を使うところを、台湾ではガジュマルの葉を使っていた(笑)。そこに四手(しで)をつけるのも台湾らしくていいなと思った。日本からも台湾からも多数の参加者があった。当時の従軍看護婦さんも来ていた。日本と台湾の方々が今現在も、しかも神道式でお祭りをしていたのです。この台中の宝覚禅寺は、「台湾の靖国神社」と呼ばれている。

  また、この宝覚禅寺には、日本人墓地がある。日本人墓地は台北にも高雄にもある。敗戦の際、当時台湾に住んでいた人のお墓は持ち帰れなかった。名前が分かった人の分は台湾の人の強力で日本に返してもらったが、分からなかった分は、台北、台中、台南地区の3か所にお骨を集めた。また、台北にあったものは、昨年台中の宝覚禅寺に移動した。これが、東北地区日本人お骨安置所です。写真で見て分かるようにお墓が非常にきれいです。これは日本人が管理しているからではなく、台湾の人がきれいにしてくれているからです。お供えもしてくれている。高雄は大きな碑になっていますが、ここもいつもきれいです。

  台湾では日本のお彼岸のような日で清明節があり、4月5日です。一名掃墓節とも言われ、みんなでお墓参りに行く日です。日本人会も行って必ず掃除をするそうですが、台湾人も協力してくれるそうです。こういう訳で、戦後50年たってもきれいに守られています。お参りに行って大変すがすがしい気持ちでした。

【「時の流れに永遠の愛を」】
  台湾の最南端の鵝鑾鼻(がらんび)岬と大陸との間にバシー海峡がある。ここで、昭和19~20年に、日本の船がアメリカの潜水艦にずいぶんやられている。当然死者が出る。それがこの鵝鑾鼻岬に流れついたそうです。そういう兵隊さんを台湾の人が葬ってくれていた。後に、潮音寺というのが昭和56年(1981年)8月に建てられる。これも日本人とともに建てたものです。落慶式には日本からお坊さんが行き、日本と台湾の戦友会が合同で毎年慰霊祭をしている。蒋介石の銅像と大きな灯台がある所で、台風で倒れたバナナ林を抜けると潮音寺があった。その倒れている様と寂れたようなお寺が非常に印象的だった。高雄から3時間もかかり、住んでいる人も少ない。夕日が沈むのがとてもきれいだそうです。

  その鵝鑾鼻の近くに、最近、「日華親善の丘」というのが建てられた。これは秋田県日華親善協会のの藤野さんという昭和26年生まれの人が建てた。親善のことを全然知らなかったが、行ってみて親日的だということが分かり、調べ絵みると潮音寺のことが分かった。それでは、と言って、「永遠」という碑を 1996年4月に建てた。その裏には、「海が泣く 風が騒ぐ時の流れに永遠の愛を」と書かれていた。国立公園の中に土地を借りるのは難しかったらしいが、台湾側の理解を得て実現したそうです。

  台南に飛虎将軍廟というのがある。昭和18年10月に台湾で飛行戦があった。アメリカのB29にやられて墜落し、3人の兵隊の肉片がバラバラになった。その日本の兵隊さんを台湾の人がお祭りしたものです。足を見つけた人が、かわいそうだというので最初5坪くらいのところで祭るんですが、段々大きくなった。兵隊さんの銅像があります。台湾はお寺での占いが盛んなところで、ここは当たるということです。神様のお告げで宝くじが当たった等で有名になり、お寺が大きくなった。このように台湾の人が日本の兵隊さんを神様としてお祭りしているところが何か所かあります。

【元少年工1,300人が来日】
  逆に、日本にも台湾の方をお祭りしている所がある。奥多摩にある笠松展望園の碑は、台湾の戦没者3万3百人を祭っている。写真の一番左は、高砂族の蛮刀です。高砂族は非常に優秀で、夜目がきいた。蛮刀で密林を切り開き、日本の兵隊が通る道を作った。また、勇敢さで知られる。その蛮刀を象って碑が作られている。慰霊塔もある。昭和50年(1975年)に作られた。

  昭和38年(1963年)にもっと早いものが作られている。神奈川県大和市の善徳寺にある「戦没台湾少年の慰霊碑」です。これは昭和18年頃から日本の青年が徴用に取られて働き手が少なくなった。そこで台湾の人の力を借りようということになって、大和市高座にあった海軍工廠で雷電という戦闘機を作っていた。ゼロ戦は上昇速度が遅かったらしく、B29にやられた。そこで雷電を作り出した。そのために台湾から13歳から20歳の8,400人の少年工が招かれた。学科で基礎知識を学んだ後、ここか名古屋、仙台の工場に配置された。その少年工が空襲で大和市でも6人亡くなっている。全部で60人近くの人が亡くなっている。この方々を祭った慰霊碑です。当時、そこに勤めて少年工をかわいがっていた早川金次さんという人が建てた。生活は裕福ではなかったそうですが、亡くなった少年工がかわいそうだと、建てたそうです。これらは日本にあるので、みなさんも行ける所です。

  8,400人の少年工は昭和21年春には台湾に引き上げたのですが、台湾はずっと戒厳令がしかれ続け、1987年まで続く。先ほど、90年代に入ってやっと日台東京フォーラムができる条件ができたとの話がありましたが、その間、日本のことを良く言ったり、日本語をしゃべることもできなかったそうです。禁止事項が多く、集合の自由がなかった。自由な発言もできなかった。そして、87年7月、元少年工の人々が昔を思い出して集まるんです。そして日本のことを盛んに話し出す。そしてあくまで政治団体ではない同窓会として高座会というのを作る。早川さん等とも連絡がとれるようになり、平成5年(1993年)6月9日に元少年工の方々1,300人が大挙して来日された。何と1,300人ですよ。

  そして、「日本にはお世話になった」、「大和は第二のふるだとだ」と言われる。そして、大和市にお礼をしたいと、「台湾亭」を建てたいと言われた。これは職人さんも材料も全部台湾の方々の手で作られた。しかし、3か月の観光ビザだったので帰らざるをえなかった。たまたま近くにフィリピンの建物があり、そちらの労働者の方が賃金が高かった。それで最後は棟梁と息子さんの二人で立ち上げ、大和市に寄贈したそうです。そして平成5年以降もずっと交流が続いている。台湾では、存命者が3,000人いるそうですが、毎年必ず1回1,500人集まるそうです。結びつきが非常に強い。今年も4月3日に神社に行かれた。この日毎年、「靖国神社の桜の下で同期の桜を歌う会」というのが開かれていますが、「同期の桜」を歌いたいと、この日、50人の方が来られました。毎年「歌う会」に来ておられたそうですが、参拝はしなかったらしい。少年工の方々ももちろん靖国神社にお祭りされているんですが、それを今年になって初めて知りびっくりしたそうです。

  「合祀ご祭神一覧」がここにありますが、野口たけしさんという人が志願して高座の海軍工廠に派遣された少尉さんだったらしい。その方が、「同僚が祭られている」と伝えたそうです。そして、「台湾軍の歌」等を力いっぱい歌って帰られたそうです(笑)。それだけ野口さんや早川さん、そして大和市の近くの伊勢原市の高等女学校の女生徒の方も女子挺身隊として派遣されていて、少年工の方々とお付合いがあったとのことで、何人か来ておられて一緒に歌を歌われたそうです。佐野たかさんというまとめ役の方は、台湾の集会に毎月行っておられるそうです。戦争を契機としてこういう結びつきがあり、戦後も交流を深めているそうです。当時の食事の風景の写真がありますが、12、13歳の方はまだあどけない。

【後藤新平民政長官の活躍】
  では、どうしてそんなに日本に親日的な感情を持っているのか。それは、日本が台湾を領有した明治28年以降の台湾政策の影響が大きいと思う。よく言われることは、戦後大陸から蒋介石を初め200万人くらいの人々(外省人)が国民党軍と共に入ってきて、2・28事件では、元から台湾にいた本省人の青年を2~5万人くらい殺した。そういう経験から、日本時代の方がよかった、国民党はだらしない・汚い、と思うようになったそうです。これに対し、正直、勤勉などを日本精神と今も言うそうです。それも一つの理由だと思うし、既に紹介した慰霊碑等の行為も台湾人のまなざしを親日的にした面があると思う。もし、自分の父にお世話になった人がお参りに来てくれたらうれしいと思う。そんな感じを持っているのだろう。

  さらに、『中華週報』で、中学1年生が歴史の副読本として使っている『認識台湾』の翻訳が出ています。これまで、学校では、「日本は植民地支配で台湾を搾取した国」と教えられてきたそうですが、家庭では、「日本時代はよかった」と教えられたそうです。この『認識台湾』はこれまでの反日教育と違って、事実に即してまとめたということで話題になった。

  そこに3つのことが指摘されている。まず、日本は時の観念を与えた、とある。電車が時刻通りに動くとか、学校が時刻通りに始まるということです。次に、法律を与えた。法治主義ですね。3つ目は、衛生観念を与えた。上下水道整備や風呂に入るなどです。これが大陸と比べて違う所とある。中国では今でも記者会見をして新聞に書いてもらうには記者にお金を払わなくてはならないそうです。そういう規律を与えたのはどの辺からかと辿っていくと、後藤新平にたどり着く。

  つい最近、奇美実業の許文龍会長が胸像を作って、後藤新平の故郷の水沢にある後藤新平記念館に贈呈したとの報道があった。台南の博物館にも飾ったそうです。そして、後藤新平を称えた手紙を送った。後藤新平は、第4代台湾総督児玉源太郎の時の民政長官で、さきほどの時間、法治、衛生の3つの観念も後藤新平さんの時に普及したそうです。

  明治28年に統治した頃は、台湾の方々の抵抗が強かった。当時、「土匪」と言われた原住民のゲリラが多く、第3代総督の乃木希典の時も、土匪対策に手を尽くしたがうまくいかなかった。後藤新平は強圧策でなく融和策を提案した。当時は、台湾の人々も日本臣民であり、彼らも陛下の赤子だからと。当時、大頭目と言われた人が20人くらいいたそうですが、一人ひとり会って説得したそうです。土匪になった一番の理由は、日本の進出で生活に困ってしまったことだった。宜蘭の頭目が明治31年に降伏したので、それでは、道路を作ってもらおう、と最初宜蘭への道路を作った。これが台湾に道路網ができた初めです。

  また、後藤新平は、日本の法律をそのまま持ち込まず、現地式の鞭打ちの刑を復活した。笞杖(ちじょう)刑と言いますが、それはどうしてか。罰金を課すとしてもお金がない、刑務所に入れるのは刑務所の方が住み心地がいい(笑)。みんな食えないのに食事が出る。日本の法務官僚から反対があったそうですが、後藤は笞杖刑を実施したところ効果抜群だったそうです。2、3年で刑を受ける人が半分に減った。それで看守を50人減らせたそうです。年間予算でみるとかなりの行革になった。

  当時の台湾は貧しくて、当初台湾を売った方がいいとの意見もあったようですが、10年目に自給自足できる体制になった。後藤新平が台湾にいたのは明治31年(1998年)から明治39年(1906年)までの8年余りですが、この間に大きく変ったのです。

  後藤新平が行った三大事業と言われるのは、台北・高雄間の鉄道開設です。これで南北がつながった。それまでは台北・新竹間しかなかった。次に港の建設。台湾一の基隆港の場合、浅瀬なのでわずか1,000トンの船が4キロ手前で待機せざるを得なかった。そこで、基隆や高雄等の港湾建設を行った。3つ目に、国勢調査を行った。日本は大正9年からですが、台湾では明治38年から実施しています。これで住民状況をつかんだ。

  台湾では土地の所有者と耕作者が違っていて、土地調査を行った。特にこれまで多かった隠田について調べている。そして、600分の1と2万分の1の2つの地図を作っている。台湾の伊能忠敬と言ってもいいような事業です。調べてみると耕地が2倍あった。そして、地租が3,5倍になった。その他、中国は英国と阿片戦争をしていますが、台湾でも阿片がはやっていて、吸引者が16万人いたらしい。最初は禁止政策をとったらしいが、内務省の衛生局長を経験している後藤新平は、漸禁政策に変えた。全面禁止にすると外国の業者が入ってくるだけだからです。これは、彼が日本にいたときから提案していて、台湾に乗り込んでから実施したものです。そして政府が輸入して吸引者に提供することとした。国勢調査でも阿片吸引者かどうかを調査している。これで新しい吸引者を増やさないようにした。これも10年毎に半減したそうです。昭和4年には2万4千人に減っている。

【終戦時、国民学校就学率が97%に】
  この他に、食塩、樟脳、煙草の専売制度も作った。新渡戸稲造さんを使ってさとうきびの栽培を奨励するなど、台湾の基礎作りをした。それで、許文龍さんが胸像を作って称えていると思います。後藤新平の銅像が色々できていて、調べてみたのですが、明治44年に新公園、今の2・28記念公園に、翌年に台中にもできている。後藤新平は、昭和4年に亡くなっていますが、台北の博物館で遺品展覧会が開かれている。その他、教育の普及にも貢献しています。終戦時の国民学校就学率が97%になっている。これを台湾の人は非情に誇りにしている。大陸に比べると非常に高く、日本の内地並です。原住民のための国語教室も開いている。

  この前、石原慎太郎さんが尊敬する人は後藤新平だと言いましたが、最後は東京市長をしています。大正12年9月1日に関東大震災があった。この時、復興院総裁として昭和通りを作っている。昭和天皇も、「あの時後藤新平がいてくれて助かった」と言われた。台湾でも幹線道路を作りましたが、東京でもこの時期を逃したらもう作れないと言って作ったのです。しかし、当時の東京市には予算がなく、後藤が考えたような都市づくりができなかった。もしできていたら、今の東京はこんなに渋滞していなかったでしょう。その他、満鉄総裁や拓殖大学の第3代総長を勤めている。台湾の嘉南大しゅうという農業用水を作った八田與一さんの息子さんで八田晃夫さんが、『後藤新平略史』を書いています。これは私費出版で本屋では売っていない。本格的に勉強したい人は、昭和18年に鶴見祐輔が書いた『後藤新平伝』全8巻がある。この人は後藤新平の義理の甥に当たる人です。

【討論】
日男  韓国の人の話と全然違う。意外な感じですね。

日女  私の友人は、台湾の中学校を出て日本に来た人で、彼女は、自分が日本人とのハーフだと言うとみんなから尊敬されるそうです(へー)。本人はすごくいい気分なんですが(笑)、まわりの人も戦争のことはそんなに分からない筈なのにどうしてそう思われるのかなあ。

柚原 明日は昭和天皇の誕生日ですが、台湾では鄭成功のお祭りがある日です。台湾は清の前にオランダに統治されましたが、明日は鄭成功がオランダを駆逐した日です。鄭成功のお母さんは田川まつという日本人で、長崎の平戸の人です。だから明日のお祭りは平戸からも参加者がある。お父さんは鄭子龍という明朝の将軍で最初は清と戦いますが、清朝に寝返ってしまった。お母さんが怒って、「お前は明のために戦え」と言って自殺してしまう。そこで科挙の勉強をしていた鄭成功は、「自分には学問はいらない」と本を火にくべて国のために戦った。16世紀の話です。

日男  正統か異端かを争って戦うのが中国の歴史で、鄭成功は明が正統だという立場だった。天の命は改まっていないと考えた。改まれば「革命」になりますね。国性爺合戦で有名。昔の日本人はみんな知っていた。

柚原  近松門左衛門の作品で、鄭成功をモデルにした浄瑠璃で、超ロングベストセラーの芝居です。

日男  今日が占領が終わって47年目の日に当たる。占領は戦闘状態の継続ですから、本当の意味の戦後50年はあと3年ですね。

【いいことも悪いことも書く教科書】
日男  反日感情はほとんどないんですか。

柚原  いや、やはりありますよ。そういう教育をしていますから。『認識台湾』はまだ副読本にすぎないから。でも、『中華週報』は、日本にある大使館に相当する駐日経済文化代表処で出している機関紙ですから画期的なことです。

日男 民新党がやったのならわかるんですが。政府は国民党ですからね。すごいことです。

日男  アジアの教科書は国によって違うけど、インドネシアやマレーシアのように、いことも悪いこともあったと事実中心に書くものと、悪いことしかしなかったと書くものがありますね。

日男私もこれを読んで、「本当かな」と思った(笑)。しかし、黄昭堂さんの話でもそういうし、黄文雄さんの本でもそう書いてある。考えてみれば、日本もアメリカの支配を受けたが、民主化や市場開放でいいこともあった。だから、そのような受け止め方があってもおかしくないなと思うようになった。

日男 日本人は不思議なくらいに占領した連合国を恨んでいない。また、占領中の7年間は恨む文書は発禁だった。アメリカを支持する人々が政財界の要職を占めた。逆に、幹部でない公務員や会社員や教職員は労働組合を作ってソ連または中国支持となった。日本派の存在は許されなかった。その影響は今でも続いていて、真っ赤な思想の教え子がピンクになったりの明度の変化はあっても、色相は変っていない。この外国がつけた色で、自分の色を主張する人もいる。

日男  やはり事実を中心にすることですね。

柚原 台湾では名前を変えた。朝鮮では「創氏改名」と言いますが、台湾では「改姓名」と言います。それに神社を強制参拝させられたという。許文龍さんも、日本はいいことばかりしたわけではないと明確に指摘しています。ただ、台湾の改姓名はあ許可制で強制ではなかった。有名な洪思翊さんは日本の陸軍中将だったが、名前は変えずに通した。強制にしなかったのは、郵便貯金等改名で事務手続きが煩瑣になること、また日本名を名乗ることで得する人がでてくるということがあったらしい。

【「志願」を誇る少年工】
日男 台北の円山大飯店は、台湾大神宮の跡地に建てられた。本来国有地だったのに、蒋介石夫人の宋美麗が勝手に私有地にして建てたという。子どもの頃聞いた話では、神社参拝の強要があったので、日本の敗戦後、怒って取り壊したということだった。しかし、実際は宋美麗が自分の私有地にするためだったらしい。そういうことは都合よく教育していた。

柚原 この本にも桃園神社のことがでてきますが、これは今、桃園県の忠烈祠が建っている。国民党が桃園の人々に取り壊しを指令したところ、自治体で賛成か反対かの投票をしている。結果はそのまま残そうということで残した。台南では、羽鳥又男という市長がいて、孔子廟だったところに神社が建てられたことに対し、「それはおかしい。地元の信仰を守るべきだ」ということで、日本の神様をはずして孔子廟に戻したそうです。そういう市長もいたが、これは後藤新平に関係がある。彼は台湾の習慣を徹底的に調べさせた。そして、習慣をできるだけ壊さない形で日本の統治をしようと考えた。

日男外地に日本の神を祭らせたのは軍ですが、これには日本の神社界や保守派からの大きな反対があった。右翼の巨頭といわれる頭山満がバックにいて葦津耕次郎等が反対の立場で奔走したが、結局現地の軍が勝手に朝鮮大神宮を作り、以後そういう例になった。非常時における軍事政策であって、神社界がやらせたわけではない。

日男  少年工は強制ではなかったのですか。

柚原  そう言う人もいますが、それに対しては少年工だった人たちが非常に怒っています。「自分たちは志願で来たんだ」と言われる。学科試験も大変だったらしいが、校長の印鑑と家長の印鑑も必要だった。郷土の誉れを担ってくるわけですから出征兵士のようなものです。

日男 選ばれた人々だと思っているから団結も固いんでしょうね。韓国では挺身隊=慰安婦のイメージを作ってしまったが、台湾では女子挺身隊だったと言って堂々と集会に出てこられる。元々、挺身隊は看護婦など多様なことをしていたわけですから。日本でも、働ける人はみな挺身隊に参加した。

柚原  少年工は、国民学校卒であれば工業学校卒の、旧制中学卒の人は大学予科卒の資格を与えることになっていた。しかし、途中で戦争が終わったために終了証書を貰えない人がほとんどだった。これについて、最近文部省が、全員に終了証書を出すことになるらしい。

日男  画期的ですね。

日女  元少年工の人に何人かお会いしました。おそろいのバックルやネクタイピンを必ず身につけて来日されるそうです。

日男  日本がアメリカを思うよりは、台湾の日本への思いが強いですね。

柚原 去年暮れに亡くなられた呉建堂さんは日本の短歌を詠む歌人です。宮中歌会にも招かれた人です。朝日新聞の「折々の歌」で、大岡信さんがよく紹介していましたが、孤蓬万里というペンネームで『台湾万葉集』をまとめられた方です。集英社から出版されています。何度もお会いしましたが、「台湾語はもうさび付いていた。まして中国語は使えない。最後は日本語だ」と言っておられた。日本人として生まれ、日本語が一番自然だったそうです。戦後、中華民国語になったが、それでは歌が作れない。結局、日本語でえ作らざるをえない。そこに台湾人の悲しさもある。どうしても日本語で考えてしまうそうです。李登輝さんもそうじゃないかとよく言われる。また、話す言葉は台湾語や中国語でも、思考は日本語でしている人もいるそうです。それは思考法が似ているからで、それも親日的な理由ではないかと言われます。

日男 李登輝さんは、「もし僕が日本に行けたら嘉南大しゅうの話をする」と言われる。八田與一さんが作った農業用水です。「その長さは万里の長城よりも長いんですよ」と大陸を引き合いにして驚かせ、「これがあったから戦後の台湾が生きていけたんです」と、喜ばせる。そして、「僕はどこかの国のようなことは言わない」と笑わせるんです(笑)。その辺のセンスは本当に日本人にわかりやすい。また、「僕は家康だから、秀吉のようなことはしない」とも。大陸との関係では、「鳴くまで待とう」という意味だと思いましたが、日本語で日本人と話す時の思考はまさに日本的でした。 ◆
スポンサーサイト

COMMENT

EDIT COMMENT

非公開コメント

プラグインの説明
このテンプレートは、プラグイン1・2・3に対応しています。

最上部のメニューバーがプラグイン1です。マウスオーバーで展開するメニューになっていますので、お好みでプラグインを設定してください。「HOME」のような普通のリンクも置けます。

←のエリアがプラグイン2です。有効範囲幅は180pxです。

このエリアがプラグイン3です。有効範囲幅は540pxです。
サイズの大きなプラグインに適しています。

★テンプレート名で検索すると、作者のブログにより詳しい説明があるかも知れませんし、無いかも知れません。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。