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台湾紙「自由時報」(10月24日)より。翻訳=日本李登輝友の会 

台湾紙「自由時報」(10月24日)より。翻訳=日本李登輝友の会 

台湾蓬莱米の父・磯永吉氏-手書き原稿が明らかに

【記者郭怡君/台北報道】「台湾蓬莱米の父」と呼ばれる日本籍教授の磯永吉氏は、日本統治時代以来、46年にもわたって台湾で仕事をしていた。彼が台湾大学農芸部に残した手書き原稿、調査記録、農業文献が2年前に台大図書館に寄贈されたが、最近、初歩的な整理を経たところ、その多くはアジア近代農業史に関する第一級の貴重な史料であることがわかった!

台大校史艦の張幸真研究員助手は、「磯永吉氏は台湾の水稲耕種を科学栽培の域にまで持っていったキーマンで、その調査地域は福建、海南島、そして東南アジアにまで及んでいた。台湾総督府農業試験所長と台大の前身である台北帝大の講座教授を兼任していたため、日本統治時代の総督府の農業関係の公文書は、みな台北帝大の彼の下へ送られて批准された。現在台大図書館に保存されている文献記録の多くは、世界でも唯一の正本という宝物だ」と指摘する。

台大農芸部の頼光隆名誉教授は、「日本統治時代の台湾の水稲は在来米が主で、日本から導入された稲種の栽培は、なかなか台湾では成功しなかった。磯永吉氏は野外実験観察に10数年も費やし、一千種類以上に上る優劣不揃いの台湾稲米から300余種を厳選して栽培し、それと日本の稲種を交配の上、台湾で生育可能な『蓬莱米』を選育し、台湾の稲米の品質と生産量を大々的に向上させた」と語る。

そして「磯永吉氏の貢献は台湾におけるものだけではない。長期間累積した農業の研究開発の成果を結実させた英文の『亜熱帯稲米と作物の輪作』は、亜熱帯農作物のバイブルと言うことができる。1960年代、我が国が国連の食糧農業機構を通じて蓬莱稲をインドに贈ったことで、東南アジアでの試験栽培にも成功している」と強調する。

磯永吉氏が研究開発したものにはさらにサトウキビ、サツマイモ、ボケ、亜麻、小麦、そしてブタや鶏などの品種がある。そのため台湾農業の発展は彼の腕にかかっていた。戦後も磯永吉氏は日本に返されずに留用されたごく少数の教授の一人で、1957年に引退して帰国するときには、我が国の政府はその台湾農業に対する貢献に感謝するため、省議会の決議を通じ、終生、彼に食用の蓬莱米を贈ることにし、彼が亡くなるまで、毎年日本に送り届けたのだった。           

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【解説】 磯永吉とともに今でも台湾の人々から慕われる「蓬莱米の母」末永仁

昨日付けの台湾紙「自由時報」に、台湾で蓬莱米を開発した磯永吉(いそ えいきち)が母校である台湾大学に残した原稿などを整理したろ、「その多くはアジア近代農業史に関する第一級の貴重な史料であることがわかった」という記事が掲載された。

記事には磯永吉の業績の一端が書かれているが、蓬莱米の改良開発には末永仁(すえなが めぐむ)というもう一人の重要な人物がいる。いい機会なので、蓬莱米の改良に携わった磯永吉と末永仁について少しばかり紹介してみたい。

台湾にはジャポニカ種を改良した「蓬莱米」と呼ばれる米の品種がある。蓬莱とは台湾の美称で、大正10年(1921年)に改良を進めていた台中州試験農場で発見された改良種「台中65号」のことで、その5年後、時の伊沢多喜男・第10代台湾総督(「台湾教育の父」伊沢修二の弟)によって命名され、全島で栽培されるようになる。

ちなみに、蓬莱米普及前の大正10年の台湾米生産量は75万トンに過ぎなかったが、普及後の昭和13年(1938年)には147万トンと倍増している。日本本土にも輸出するほどになり、台湾の米作農家は豊かになり、蓬莱種の出現は台湾の農業を大きく変えるとともに、台湾人の食生活にまで大きな影響を及ぼした。戦後も品種改良は続けられ、今でもその栽培面積の98%が蓬莱米だという。

そもそも日本が統治する前の台湾の米は長粒のインディカ米と呼ばれる在来種で、一般に低収で品質が劣るため安値でしか売れなかった。パサパサしていて日本人の口にも合わなかった。そこでこの改良に尽力したのが、今でも台湾の人々から「台湾蓬莱米の父」と称揚されている磯永吉であり、「台湾蓬莱米の母」と慕われている末永仁である。

磯永吉が農事試験場に赴任したのは明治44年(1911年)。磯と同い年の末永仁はその前年に訪台している。大正元年(1912年)に出会った二人は、日本米栽培に適していると思われた台中に赴任し、磯は農務技師として、末永は試験農場主任として改良に携わることになる。

当時、ジャポニカ米とインディカ米の交配は至難中の至難と言われる中、膨大な数の交配を繰り返すことでこの困難を克服し、また日本米同士の組み合わせから「台中65号」などの優良品種を育成している。彼らが育成した品種は総計260にも達したという(2001年1月17日付「農業共済新聞」)。

その後、磯永吉は台北帝大農学部教授となって蓬莱米作付けの奨励と指導などに当たり、戦後も請われて農業庁顧問として台湾に残留、磯が帰国したのは昭和32年(1957年)だった。帰国に際して最高位の大授景星勲章を授与されるとともに、昭和47年、85歳で亡くなるまで毎年1,200kg(20俵)もの米が台湾から贈られたのだった。

一方の末永も台中で米作の研究と指導に当たり、昭和12年(1937年)にはボルネオ政府から請われて稲作指導に当たったりしていた。しかし、結核にかかり、その2年後の昭和14年に亡くなっている。昭和16年(1941年)にはその功績を称えて、末永の胸像が台中州試験農場内に建立されている。

昨年9月、末永の郷里である福岡で開催されたアジアマンスリーで、日本李登輝友の会福岡県支部(大矢野栄次支部長)がパネル展を開き、この末永仁とやはり福岡出身の明石元二郎について展示したところ、新聞などでも取り上げられ、郷土の偉人の功績を通じて多くの人々に台湾と福岡をつなぐ歴史を知らしめたのだった。

*参考 名越二荒之助・草開省三編『台湾と日本・交流秘話』(展転社)

                メルマガ「日台共栄」編集長 柚原 正敬

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